二隻の船舶が激しい馬力合戦

二隻の船舶が激しい馬力合戦

石垣島の南西海上約六㎞に浮ぶ竹富島。古くから「うつぐみの島」といわれ、また「民芸の島」としてミンサーなどの染織が盛んな島で知られる。日本復帰前後を境に、島を訪れる観光客が徐々に増え出し、今では「観光の島」と呼ばれる。
 観光が今のように盛んではなかった頃の話だが、今も同じく竹富島と石垣島を結ぶ手段として、住民の“足”は船が頼りだった。歴史をたどると、一九一三年(大正二)頃、八人の組合員による伝馬船が竹富島~石垣島を就航させた。一九二五年(同一四)には、焼き玉エンジンの富島丸が両島間をつないだ。戦時中も海上交通の中心的な役割を果たした。だが、富島丸は米軍の砲弾を受けて沈没した。
戦後になると、漁船を改造した新生丸が就航。その後、第二の新生丸が誕生したが長くは続かなかった。一九五三年(昭和二八)、新和丸(船主・高那石吉)が旅客定期航路の船舶免許を取得して竹富島~石垣島を航海した。一九六〇年(同三五)には、六一年度船舶建造融資で改装した新たな新和丸(十一㌧)が、石垣島から竹富島へ処女航海した。
 新和丸に対抗したのが若竹丸(船主・前浜重雄)だった。一九五一年(同二六)頃に焼き玉エンジンで就航した。同船は、エンジンを四〇馬力に改造し、両島間を二〇分~二五分でつなぐ計画を立てた。一九六一年(同三六)には台風で大破した若竹丸は、翌年新造船になって就航し、焼き玉エンジンからディーゼルエンジンと代わり、石垣島までを三〇分弱で往復した。
 一方、新和丸は排水量一二㌧・三〇馬力・最高速力七・七ノットの性能を誇り、竹富島~石垣島を四五分から五〇分間で走っていたのを三〇分に短縮させた。一九六三年(同三八)になると、焼き玉エンジン三〇馬力が、六〇馬力のディーゼルエンジンに切り換えられ、石垣島~竹富島を二〇分で結んだ。
 両船は、このように先を競い合い反目、激しい馬力競争を展開した。当時は民主党(ミン=耳)と社大党(パナ=鼻)の激しい「白黒闘争」の時代だった。二つの船の乗客はおおむね決まっていて、「新和丸」の乗客は社大党支持者、「若竹丸」の乗客は民主党と見なされ、人々は余程のことがない限り、船を乗り換えることがなかった。反目は復帰前後まで続いた。
 日本復帰以前の島々の船舶は、それぞれの島を母港とし、地域の人々が船主であった。しかし、赤字経営に悩んでいた。それで国庫補助を得て各島の港湾整備事業を行うとともに、ホバークラフトを就航させ、各島々の船主を統合する構想が生まれた。そして、八重山観光フェリー(株)が設立され、一九七二年(同四七)、ホバークラフトが運航。だが、ホバークラフトは運賃が高く、高波だと運休するという弱点があり、現在の高速船に変わった。今では島間に四社が高速船を走らせる。

竹富町役場 通事 孝作

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