モンマルトルのテアトル広場に面した建物の、三階の部屋の窓から煙が出た。煙の中から老婆が「オ ・スクー! オ ・スクー!*」と叫んでいる。 煙の勢いが激しくなり、追い詰められた老婆は窓から身を投げた。老婆の体が宙に舞った瞬間、ひとりの男が窓の下に駆け寄って、落ちて くる老婆を両腕で受け止めた。が、腕は落下の重みに耐え切れず、男は老婆を抱いて前にのめった。建物の前の狭い歩道はカフェのテラス になっていて、壁に沿ってテーブルが並んでいる。前のめりになった男の腕の中の老婆はそのテーブルの上でワンバウンドし、それから テーブルごとひっくり返り、石畳に叩きつけられた。それでも、軽い打撲傷を負っただけで老婆は救われた。奇跡としか言いようがない。
「火事だ!」と言う叫び声が上がったとき、僕は似顔絵を描いている最中だった。周りは騒然となり、僕は描きかけの似顔絵を急いで仕上げ、客に渡し、広場から逃げた。僕の客もどさくさに紛れて金を払わずにさっさと逃げた。
火事はボヤで治まり、周りに被害はなく、翌日のテアトル広場はいつもと変わらずに芸術家と観光客でにぎわっていた。 老婆を救った昨夜の男の名はコスタ、ギリシア人の芸術家である。急いで広場から逃げた僕は、コスタの救助話をその場に居合わせた他の絵描 きたちから後で聞いた。しかし、本人のコスタは何事も無かったかのように、まるでエーゲ海に浮かぶ小島の砂浜に寄せては返す波を眺めてい るような眼差しで、夏のテアトル広場に揺れる人の波を眺めている。
ある日、コスタは小さな男の子の似顔絵を描いた。描きあげた似顔絵のすばらしさに自分で満足したコスタは振り返り、 後ろで絵描きの手の動きを疑い深く目で追っていた父親を見た。完成した似顔絵の前で、立派な身なりをした父親は腕を組み、首をかしげ、ひ とつ「うーん」と唸り、そして言った。
「これは、どう見ても私の息子じゃないな」
哲人コスタは動揺することなく静かに言い返した。
「ムッシュー、そんなこと僕に言われても困ります。それはあなたの奥さんに聞いてください」
ギリシアの哲人、まさに恐るべし。
*Au secours ! 助けて!