-踊り・狂言・歌・遊び-(15) -鳩間節の七変化-

-踊り・狂言・歌・遊び-(15) -鳩間節の七変化-

 《鳩間節》は、鳩間島の高所・中岡からの景観や、南端(西表島北岸)に通耕する島人の暮しを歌っている。《鳩間節》の作者について、鳩間島には仲底家の真那主が原歌を作ったという伝承もある。
 《鳩間節》には荘重なメロディーの《本節》とテンポの早い《鳩間早節》がある事は知っておきたい。
 《本節》を鳩間島では一般に《鳩間中岡》と呼ぶが、これに振付けられた舞踊が、結願祭に祝儀舞踊として、四つ竹を持って優雅に踊られる。つまり、鳩間島では儀式的な意味合いの中で伝承されているといえる。
 その髪飾りにはティジバナ、ヨコザシの花をさし、タラシ花を頭から背中に垂らす。衣裳はカカンとスディナの上に、加治工家と寄合家に伝わるタナシを着用した古装である。
 いつからか《本節》は鳩間島の祭祀の場を離れ、八重山古典民謡として広く歌われ踊られている。野村安趙の『御拝領工工四』に「鳩間節」とあることから、近代に《鳩間節》が琉球古典音楽として受容されていることもわかる。
 識名信次が一九一六(大正五)年に表紙を改調した『嶋歌並躍組之次第寄』の中に、「戌歳在番知念里之子親雲上帰帆ヲ以母親様歳日之時八重山歌躍り内之者共稽古させ羅登度被御申付候付組立是候之次第」という記事がある。このとき数曲が振付けられたというが、その中に「鳩間節」が「女手笠おどり」とある事から、大田静男氏は一八〇〇年代半ば「鳩間節」が花笠を持って踊られた事もあったと考察している。
 一方、《鳩間早節》は、八重山で歌われていた《鳩間節》を、大正時代の初期に名優・伊良波尹吉が曲をアップテンポにしてアレンジし、快活な舞踊に創り変えた事で人口に膾炙した。その粋でダイナミックな振りには、日本舞踊のカッポレの手に通ずる所作もみられ、従来の琉球舞踊とは異なった雰囲気が当時受けたのかもしれない。
 現在は流派ごとに、櫂や花笠等の小道具を使ったり、振りにも工夫が凝らされ、様々に演じられている。近年は、《鳩間節》をモチーフにして創られた、比嘉いずみ氏の創作「鳩間ぬ主」も傑作だと思う。
 また、一節ごとに繰り返されるリフレインは、これまで単に囃子詞と解釈されてきた。しかし、中岡からの実景を見て育ってこられた、鳩間島出身の小浜光次郎、加治工真市、大城學各氏らが、そのリフレインを積極的に詩的構造の中に取りいれて解釈している。
 つまり、「ハイヤヨーティバ カイダキーティートゥルートゥ テンヨーマサティーミグトゥ」のリフレインを、「南の方を見れば、美しい古見の連山が手にとるごとく、誠に眺めが優れて美しい」と訳すのである。
 この事によって《鳩間節》の国見的な性格が際立ち、同時に対岸の古見連山を遠景として、前の渡(海)で展開する、「稲や積みしき」、「粟や積み立て」る「往く舟来る舟」の面白さ・見事さが、近景としてリアルに浮き上がってくる。そこには必然と豊穣の喜びが読み取れよう。
 ところで、戦後、疲弊した人々の心を笑いで復興させた、ブーテン(小那覇舞天)は、「ブーテントゥン、ブーテントゥン」と囃子ながら、《鳩間早節》につないで、漫才を披露したという。このように《本節》のテンポアップは、リフレインの「ティトゥルトゥ」「テンヨー」の他、多用されるタ行の音が三線の音色を連想させ、《鳩間節》は座興的な性格を帯びていったのではないかと思う。
 《鳩間節》が奉納芸能から漫才の出囃子にまで変わっていくさまをみてきた。このように芸能には祭祀という制約から離れると、娯楽的・享楽的なものに傾斜しやすい側面がある。それは、時と場、観客に応じた芸能があるとも換言できる。

飯田 泰彦

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