1976年(昭和51)6月26日(土)、27日(日)の夜、登野城小学校体育館で「大浜みねリサイタル」が開かれた。当時の新聞は、開催の理由を「大浜安伴著声楽譜付八重山古典民謡工工四発行記念と夫人みねさんの民謡生活二十五周年記念、民謡大賞、民謡功労賞受賞記念で催される」(八重山毎日新聞1976年6月26日)ものと報じている。
が、その舞台でもう一つ行われたことがあった。長久先生と大底朝要さんが師匠の大濵安伴さんから教師免許を受けたのである(免許状の発行日と団体名は「昭和51年5月22日八重山古典音楽研究会」)。これが発端だった。
「しばらくして僕と朝要は(安室流)協和会から呼ばれたわけ。たくさんの先生がたがいて、教師免許が二つ必要か、と訊かれた。その年に(安伴)先生の声楽譜付き工工四が出ているわけさ、僕は直弟子だから免許がないと教えられないでしょ、だから、そう言ったわけ。歌が違うわけでもない。ふたりで歌いますから聞いてくださいね、と歌った。歌や変ーらんばんらー、あんずかーまーずんしーはららー(歌は変わらないね、それじゃ、一緒にやっていこう)、と。」
ところが、それから「2、3か月後」、安室流協和会から封書が届いた。「除名処分」の通知だった。(長久先生は協和会の教師免許を1967年(昭和42)に受けている)
「朝要は打ちだれて、もう三線やめる、と。ウチでふたりで話していたら、富川先生が入ってきたよ。あんたなんかなんでそんなに打ちだれているわけ?と。説明したら、先生は、やめるな、僕が会長をしてもいいから、あんたら二人は三線をちゃんと教えてちょうだい、となったわけさ。この人は恩人ですよ。この人がいなかったら、この会はないさ」
富川先生というのは、富川盛博医師のことで、当時、宮良長久研究所の門下生だった。そして、八重山古典民謡研究会(のちの八重山古典民謡保存会)が発足するのである。
上の写真は、1977年(昭和52)5月18日、八重山観光ホテル(八重山高校の北方にあった)の大広間でおこなわれた結成式のときのものである。新聞は次のように伝えている。
「……同会は宮良長久、大底朝要氏らが中心になり五一年九月ごろから同好の人々に呼びかけ月二回の合同練習を兼ねた模合をもって結成を見たもので、会員は高校生からお年寄にいたる幅広い層からなりいまのところ五十人である。結成に当たって那覇からわざわざ大浜安伴氏もかけつけた。(略)会は開会のことばのあと三味線琴(内間たま門下生一同)が赤馬節、しゅうら節、ばすぬ鳥節を大合奏、続いて大底朝要氏の経過報告、会則審議、理事選出の結果、名誉会長に大浜安伴、会長に富川盛博、副会長に宮良長久、大底朝要、監事は金城英浩、東嵩西美寛、会計黒島章、監査に長田紀秀、仲上里隆夫、顧問に仲里元秀の各氏を選出した。……」
当時の様子を、その背景などを含め詳しく的確に書いていると思われるのが、初代会長・富川盛博さんの「八重山古典民謡保存会の誕生」(『大浜安伴・みね顕彰公演記念誌』1988年11月)である。長くなるが、以下に引用して紹介する。
「一九七六(昭和五十一)年、八重山では、その前年に八重山毎日新聞社が「八重山古典民謡コンクール」を開催したこともあって、民謡に対する関心が高まり、各地で歌三味線の練習風景がこれまで以上にみられるようになっていた。
その年はまた、大浜安伴師匠が、演奏と譜面とが完全に一致する初めての楽典『八重山民謡三味線工工四』(昭和四十一年刊)に次いで、さらに充実した教本『声楽譜附八重山古典民謡工工四』を完成、発刊された記念すべき年でもあった。半世紀に及ぶ八重山古典民謡の研究成果を収めたこの工工四本は、私たち歌三味線を学ぶ者にとって大変わかりやすく便利な教本であり、その後の八重山古典民謡の研究、普及、発展に計り知れないほどの役割を果たしてきた。
その頃、新進気鋭の宮良長久、大底朝要両研究所は、それぞれ日頃の練習成果をもちより、月一回の合同練習で互いに技を研き合っていた。このような研究態度や高度の技量及び弟子の養成にも全力を尽くしている両氏の姿に感銘した大浜安伴師匠は、かつて三味線の手ほどきをした弟子であるということもあって、昭和五十一年六月二十六日、登野城体育館で開催された『大浜みねリサイタル』の舞台で、宮良長久、大底朝要両氏に教師の免許を授与されたのである。ところが間もなくして両氏はこれまで所属していた安室流協和会から除名処分を言い渡されたのである。
そのうち、八重山古典民謡コンクールも押し迫り、所属を失った両研究所は八重山毎日新聞社の『各研究所めぐり』の取材訪問をうけることとなり、急遽、今後の対応策についての話し合いがもたれた。そして結局は大浜安伴著の工工四を基にして勉強するのであるから、先生には事後承諾を得ることとして、先生の研究所と同じ名称を用いることに決定した。またこの際、大浜安伴師匠を名誉会長とした会則をつくり、将来に向け本日を期してスタートしようという二十六名の有志の力強い意見の一致もみた。こうして八重山古典民謡研究会は誕生したのである。ときに昭和五十一年九月十日午後八時であった。
その後、会則の検討及び将来に向けての構想が練られ、先生の快諾も得られたので翌昭和五十二年五月十八日、八重山観光ホテル大広間で発会式をもつに至った。
(略)
その後、年を経るに従って会員数も増大し、支部設置規程や免許審査規程及び細則その他会則も充実し、那覇支部及び関東支部の結成を生み、名実ともに今日の隆盛をみるに至ったのである。
なお、会の名称については、その後『八重山古典民謡音楽研究会』となり、さらに那覇支部の結成されたのを機に『八重山古典民謡保存会』と改称し、現在に至っている。(略)」
八重山古典民謡研究会発足前後の様子は、「大濵安伴生誕百年記念公演座談会」(『歌心豊かに』2012年)でも語られている。大仲進さんの「僕たちは長久先生、朝要先生から声がかかるのを待っていたような状態でしたから」という発言を受けて、東嵩西美寛さんが興奮気味に話している。
「そのとき新本さんのところで、十二名の戦士って僕呼んでるんですけどね。その十二名の戦士が集まって。長久先生、朝要先生を中心にして、金城さん、章兄さん、それから僕、新本さん、とにかく十二名だったんですよ。そのときに十二名をもとにして、じゃあやろうというときに、富川先生を中心にして一気に走り出したんですよ。(略)その後に、長久先生の甥の宮良善孝くんの二階で役員会があった時に、南風野さんが川平から合流してきたんですよ。このときの嬉しかったこと。あの状況のことは全然忘れないですよ。これがタイミングだったんですよ。そして、友宏先生の師匠の友寄英喜先生なんかが来て、『えーあのひとなんかも来てくれるわけー』そういうタイミング。もう絶対僕なんかは将来発展する、崩れない、というくらい。そのときにね、南風野さんが二階に上がってきた光景は全然忘れないです。このときの心強かったこと。」
(敬称略・文責筆者)
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