喜舎場永珣先生(1885年生)は、八重山の自然や文化をこよなく愛し、生涯を八重山研究に捧げられました。そんな先生をカメラにおさめたいということで、登野城のお宅を訪ねたのは、1970(昭和45)年のことでした。この時すでにたくさんの論文や著書がありました。
当時先生は86歳。若いころから、すでに翁といった風情をお持ちでしたが、老いてなおかくしゃくとされていました。
書斎に案内されたぼくは、どのように撮影しようかと考えました。すると、先生自ら机に向かい、ポーズをとられました。メガネが牛乳瓶の底のように厚く、正面から撮ると、目が実際よりも大きく写るので、横から撮ったり、照明を当てたりと試行錯誤しました。夢中でシャッターを切りましたが、先生の「ミサンシャー」(良いね)という言葉で撮影は終わりました。
その翌年に、「柳田国男賞」という大きな賞をとられました。先生は沖縄が日本復帰した年(1972年)にお亡くなりになりました。その後、『八重山民俗誌』が出版されましたが、その巻頭グラビアにこの一枚が用いられていて、ぼくはたいへん誇りに思いました。