西表島の東部から北部にかけての集落は、南方から順序よく豊原、大原、大富、古見、美原、船浦、上原、中野、住吉、浦内の十一カ村が浦内川までの間にはある。ほとんどの集落は戦後実施された琉球政府の計画移民か、あるいは自由移民であり、古見集落を除き比較的に若い村である。そのなかで美原集落は最も新しい集落である。対岸の由布地区の住民が日本復帰の前年の一九七一年(昭和四六)八月八日、集落移転して創建された。一カ月前には西部の網取集落が廃村になっている。
新天地・美原に移り住んだ当時、八重山は台風と長期の干ばつに見舞われ、危機的な状態だった。牛の島・黒島では牛にやる牧草が枯死したため、与えるものなく止む無くやせ細った牛を出荷せざるを得なかった。
由布地区では一九六九年(同四四)九月、台風一一号の襲来による高潮で、島全体が海水に侵された。七一年には干ばつが襲った。繰り返す悪夢に住民は「この小さな島では生活できない」として移転を決意。西表島の東部の慶田城原に安住の地を求めた。六九年~七一年の三カ年は八重山にとって悲惨で最悪な年だった。
由布島から移住したのは十一世帯、四十八人。新しい集落名は、将来に大いなる夢を託し、自然の豊かさを取り入れた「美しい実りある原野」との願いを込めて「美原」と命名した。集落名の通り、集落の前面や北側には畑地と牧場が広がる。
由布島から美原に移住した住民らが、まだ由布島で生活していた頃まで一帯は開拓の地になっていた。移住した人々は新規まき直しの心持ちで、一部荒地に鍬を入れた。そして連日、開墾に汗を流した。
集落の住民の荒地開拓と併行して、行政では住民の住む住宅建設に向けて宅地造成から着手した。住宅現場では重機類がうなりをあげて、起伏のある大地をならし、家屋が建てられるように作業を繰り返した。現場では大型トラックが砂煙を上げて激しく住宅場所を出入りした。作業が進むなかで、造成面積が広がり、家屋が建てられるような状況になってきた。造成の面積が拡大すると、それに反比例して大型トラックとその業者が減り、今度は家屋を建てる建築業者の出番となった。業者は決まった設計に基づき、一軒一軒と住民の家屋を建てていった。
建物は屋根がトタン、壁がコンクリート製の永久家屋。広さは一家四人が住むのに十分な面積だった。家屋はどの家も同じ規格なこともあり、あたかも
〝農村団地〟のような感じだった。美原集落の人々は、元来、竹富島や黒島、それに沖縄本島の関係者が多い。農作物の栽培に精を出し、心の結びつきは強い。