第4回 美しくも悲しい言葉の物語

 島の登野城七町内の北の方の子供たちは皆と同じように島の共通語を話していました。でも親たちは家の中でも近所でも宮古方言で話していました。そこには宮古島からの移住者が多く住んでいたからです。その影響で僕が話す言葉には今でも宮古の訛りがあると言われます。
 登野城小学校で「方言を話さない運動」がありました。正確には「方言」ではなく「何々ばあな」などの島独特の共通語の表現と音声を修正するのが目的だったように思えます。素直な子供だった僕はその教えをまじめに実行に移しました。
 ところが「鉛筆貸してひーれ」を「鉛筆を貸してくれませんか」と国語の教科書の会話を真似て話すと「お前なんでひとりで格好付けてるばあな」とタックラされそうになりました。
 東京に出て田舎者と思われないように真っ直ぐ前を見て歩いていたら道を間違え、引き返すとばれるから曲がっても怪しまれないところまでそのまま歩き続けたこともあります。 
 食堂では壁に並んだメニューの短冊が読めなくて、読めてもそれがどういう料理かわからなくて戸惑いました。「明太子」は文字どおり「明国の太子」が食したものだと確信し、それらしく背筋を伸ばし威厳を込めて大きな声で注文しました。「ミンタイシを下さい」・・・その後どうなったかここでは書かない。死なすドと言われても書かない。
「高額収入、食住付、家庭的雰囲気」と書かれた新聞広告に惹かれて面接に行き、その場で住み込み就職と決まりました。仕事はレコードと百科事典のセールスです。翌日、先輩の説明をひと通り聞いた後で「それを売り付けるのですか」と言うと即その場でくびになりました。
 恋をして初めてのデートの日は彼女が話すその言葉の美しさに聞き惚れてうっとりとしているだけで僕はひと言も話しませんでした。僕が話をすると何かが壊れてしまいそうな気がしたからです。くびになるのが怖かったのです。明大前の小さな玉川上水公園のベンチには春の陽光が柔らかくそそいでいたのに、なぜかその日以来彼女は二度と会ってくれませんでした。

与座 英信

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