第8回こだま会の巻

第8回こだま会の巻
第8回こだま会の巻

長久先生の声がくぐもって聞きにくいときがある。「自慢話に聞こえてしまうかな」とご本人が躊躇するようなときなどがそうだ。今はそんなときこそ聞き耳を立てるのだが、はじめのうちは聞き流していた。
こだま会のこともそうだ。子ども会と聞き違えていた。子どもに三線を教えていたのだろうかくらいに思っていた。ところがここまで聞き進めてきて、こだま会のことが長久先生のなかにかなり大きく印されていることがわかった。「うむさーだ(面白かった)さあ」。楽しそうに話される。
「節ちゃんが、やりましょうということで始まった。この人がいないとあんなの出来なかったさ。ほんとにあの時代が面白かったですね。流派なしにぜんぶ集まって、文館で。でも、暑くてよ(笑)」
 文館というのは八重山琉米文化会館のこと。米国統治下の沖縄には、那覇、石川、名護、宮古、八重山の5か所に、米国の政策や情報を住民に周知させる目的(沖縄大百科事典)の琉米文化会館という施設があった。そこには図書室がありホールなどがあってさまざまな社会教育活動が実践された。
八重山琉米文化会館は、登野城小学校西の記念運動場(現海星小学校)に1952年(昭和27)4月に開設されたが、交通の利便性などから1962年(昭和37)4月に郵便局の北に新築移転した。現在の石垣市立文化会館の建物である。復帰後その建物を国が買い上げ市に譲渡したので石垣市立文化会館となったといういきさつがある。
節ちゃんというのは当時文館の職員であった山里節子さんのことである。
「スチュワーデスだった節ちゃんは、ハワイから帰ってきて、文館にいて、あの頃そうとう目立っていたよ」と長久先生はおっしゃる。

 当時のアルバムが残っている。こだま会が開いた「第1回郷土芸能の夕」(1963年8月16日・17日)と「第2回郷土芸能の夕」(1964年2月28日・29日)のときの写真が綴られている。いずれも八重山琉米文化会館ホールが舞台。
上の写真は第2回のときの一枚。干瀬節を独唱する長久先生である。30歳になったばかり。琴は宮良美智子さん。アルバムには写真の横に「こだま会の名コンビ…が干瀬ブシと出ましたから聴衆はただウットリするばかり」とメモがある。このメモは山里節子さんが書いたもの。
アルバムには当時のプログラム(山里さんによると、その達筆は田代秀さんの字)も綴られている。プログラムから出演者を列記する。
第1回 【三味線】石垣正勝・上原盛一・知念栄一・知念清吉・長田紀政・新城永三・石垣信吉・宮良長久・豊平秀栄・小波本英行・小波本直弘 【太鼓】比屋根重雄 【琴】宮良美智子・大浜貞子・富永由美子・玉代勢千恵子・伊波武子・黒島喜美子・大山澄子・山城まち子・大浜雅枝・山里節子
第2回 【三味線】宮良長久・知念清吉・辻野信行・豊平秀栄・小波本英行・石垣信吉・長田紀政・小波本直弘・新城信作・新城永常・上原盛一 【太鼓】比屋根重雄 【琴】崎山登美子・玉城嘉子・大山澄子・黒島喜美子・山里節子・宮良美智子・富永由美子・福里美葉子 【舞踊】浦原富子・亀山正雄・宮良愛子・玉代勢千恵子・大嵩はま子・慶田盛弘・山城ミネ子・宮良良子・鳩間秀子 【特別出演】花城ミツ・仲里元秀

「みんな覚えているさ」と長久先生。
「これがあのときの郷土芸能愛好者はや。登野城・大川・石垣・新川…みんな入っていますよ。今は何派とか暴力団みたいになってるけど(笑)あのときはまだそれほどでもない。第1回目は先輩方が中心になってね。石垣正勝さん、知念栄一さんたちと揚古見の浦を歌ったのが思い出に残っているさ。登野城の知念清吉さん、小波本英行さん、小波本直弘さんのトリオは有名だったよ。三人で歌った『八重山育ち』は評判だった。ジーピシィ(地搗き)なんかもやって、美女に囲まれて、最高だった」と懐かしそう。
 第2回プログラムのこだま会会員名簿をみると、会長に宮良長久の名前。「なんで会長?」と訊くと、「のーでかやー」と笑うばかり。副会長=宮良美智子、会計=宮良政宏、監事=比屋根重雄・山里節子。「このときの写真は宮良政宏さんが撮ったものでないかな」というのが長久先生の記憶である。第1回の出演者のうちから、三味線では石垣正勝、知念栄一、新城永三の名前が抜けている。
 さて、やはり、別々の流派の若者が集まって演奏はうまくいったのか、気になる。
「節ちゃんが、歌をアレンジしてやろうみたいなことを言ったけど、それはできないと断った。若者がアレンジなどしたら(師匠に)首になされるから。きっちり歌う時代だったですよ。習ーされーる通りはや」
 そこで山里節子さんを訪ねた。こだま会ができたいきさつも、「そう長くは続かなかったはず」(長久先生)という会の終わりも聞きたいと思った。山里さんの話はおおよそ次のようなものだった。

「八重山の文化を謳歌できるようなプログラムを」と、山里さんが提案して郷土芸能のプログラムをスタートさせた。「ほんとはベテランにキョンギン(狂言)などやってもらいたいこともあったけど、大先輩の皆さんはすんなり乗ってきていただけないだろうと」若者中心になった。結果としてそれがよかったかもしれない。「みんな燃えていました」。
まず出身地である登野城の青年たちに声をかけ、そこから大川には誰が、石垣には誰がいると広がっていった。こだま会ができたことで「西からも東からも乗り越えてきて」お互いに切磋琢磨した。「流派を超えていっしょにやったのは後にも先にもあのときだけではないかしら。それに今ほど流派にこだわっていなかった」とも。
しかし、沖縄歌は問題なかったが、やはり島の歌の演奏となると流派によって違うからいっしょの演奏は難しかった。「歌は元をただせば一つでしょ、今回は大浜津呂の歌い方でいこうと決めたら、技術の問題ではなく譲り合えるかどうかでしょ、検討してよ」と提案しても、師匠に怒られたとかで全体での演奏は実現できなかった。山里さんには「(流派が)忘れたり落としたりしたものを拾い集めたら新たなものがクリエイトできるのではないか」という思いがあった。
こだま会の終わりについて問うと、「私がいた間(~1969年)は細々とつづいていた」というのが山里さんの記憶。発表会を3、4回。真栄里公民館や大浜公民館へ出前公演をしたり、演劇クラブや読書クラブなどのプログラムの一部に郷土芸能を組み込んだりした。昔のアンガマを文館の舞台で復活させたときもこだま会がかかわったのではないか、とおっしゃる。
と、話をうかがっていると「のーどぅしーりゃ(何しているか)」という長久先生の声が聞こえたような気がした。ああ、そうだ。長久先生のなかでこだま会はしっかりこだましているわけだから、終焉の日時などあんまり意味ないかも、と思った次第。
(敬称略・文責筆者)

写真説明:
「第2回郷土芸能の夕」(1964年2月28日・29日、八重山琉米文化会館ホール)で干瀬節を独唱する宮良長久先生。右は宮良美智子さん。

はいの 晄

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