戦後八重山において、その数年間を「文芸復興期」、あるいは「ルネッサンス期」などといわれる。米軍統治下のもとで、戦前・戦中の言論統制が解かれ、さまざま新聞や雑誌が創刊された。人々は抑圧から解放されると、いろいろな出版物を求めた。新聞や雑誌は、雨後の竹の子のように発行され、文芸ルネッサンスを築き上げた。
新聞は、『海南時報』が戦前に創刊されたものの、戦争の激化で休刊。戦後は敗戦の混沌とした社会状況のなかで、一九四六年(昭和二一)一月二三日に再刊に乗り出した。その後、『八重山タイムス』、『南西新報』、『自由民報』、『南琉日日新聞(昭和二七年一月、八重山毎日新聞に改題)』、『八重山新報』、『八重山朝日新聞』、『八重山時報』などが次々と発行を始めた。
新聞は昭和四〇年代までに多い時で六、七紙もあった。その後、時代を経るに従って、激化する購読者の獲得競争に負けて淘汰され、脆弱経営の新聞は次々と姿を消した。それでも、経営陣の強化、刷新および編集人の交替などを繰り返した。
八重山の新聞は、昭和三〇年代中期から後期にかけて、選挙記事に相変わらず大きな紙面を割き、追跡報道には力を注いだ。それに加えて行政、産業、地域開発、基盤整備などに関する記事も段階的に増えてきた。このなかで一九六一年(同三六)から一九六四年(同三九)に注目した時、発行されていた新聞は、『八重山タイムス』、『八重山毎日新聞』、『八重山朝日新聞』の三紙だった。
『八重山タイムス』は、八重山支庁の機関紙『旬報』を前身に一九四六年(同二一)八月、八重山民政府を発行人に創刊。しかし、一九四七年(同二二)四月、行政機関の広報紙を脱却し、民間会社の商業紙として再出発を図った。その後、『南琉タイムス』(一九五〇年三月)、『八重山タイムス』(一九五二年六月)と改題し新聞発行を続けた。
『八重山朝日新聞』は、一九六二年(同三七)七月、「不偏不党の精神」、「真実迅速な報道と誠実公正な論評」、「郷土八重山の開発促進」などの新聞綱領を掲げ創刊。しかし、一九六五年(同四〇)四月一〇日、『八重山タイムス』と合併し、装いも新たに『八重山新聞』と改題して再スタートを切った。だが、合併はうまくいかず、二カ月足らずで分裂、『八重山タイムス』は『八重山新聞』として、『八重山朝日新聞』は再び『八重山朝日新聞』としてスタートした。
その後、『八重山新聞』は『八重山タイムス』に改題して発行を続けたが、休刊広告を出し一九六七年(同四二)一二月二四日、二一年間の社歴に終止符を打った。一方、『八重山朝日新聞』は一九六七年一〇月一日には『南西新報』と改題し、新たに発足した。だが、一九七〇年(同四五)九月三〇、「休刊のお知らせ」とする社告を出し廃刊となった。二紙の廃刊で『八重山日報』が創刊する一九七七年(同五二)六月までの七年間は、『八重山毎日新聞』が八重山で唯一の郷土紙となった。