第7回初舞台のころの巻

長久先生の写真帳 

第7回 初舞台のころの巻

 写真は、1958年(昭和33)11月9日(日)、冨崎観音堂創建220年祭のときの舞台で演奏する長久先生である。これが初舞台であった。このとき長久先生23歳、大濵安伴に弟子入りして3年目である。
 その日を迎えるために一生懸命練習した。仕事もなかなか手に付かない。歌を練習しながらヤラブ板を切ったら寸法違いになって、「とう、のーどぅすーかや(さあ、どうしよう)。天井に隠したさ(笑)」と。ところがこの栄えある初舞台の思い出は、長久先生にとってほろ苦い思い出も重なっている。
「写っていないけど、舞台の前のほうには安伴先生や漢那(長助)さんたちがいるよ。……観音堂はみんなのものでしょ、だから、舞台を二つつくった」とおっしゃる。
 この長久先生のことば、少し説明が必要である。この年、宮良賢貞や桃林寺の安室雲月(孫利)らが中心になって八重山音楽安室流安室流保存会が結成された。大浜賢扶や玉代勢長傳らも参加した。漢那長助会長と大濵安伴中心の安室流音楽協和会が分裂した格好になった。その矢先の観音堂創建220年祭である。奉賛会長に宮良長詳、副会長には大浜信賢と石垣用中が名を連ねた。大祭執行委員長は安室雲月である。記念事業として参詣道路が修築され、当日は午後1時から祝典が開かれた。
 長久先生によると、祝典の舞台が二つつくられたというのである。拝殿に向かってすぐ左手の空き地につくられた舞台と、参道途中の左手につくられた舞台。長久先生たち協和会は参道途中の舞台であった。
「漢那先生がジンブン(知恵)あるさ。分かれたからといってアンジェーナラヌアラヌ(そうはできないじゃないか)? 奉納演奏であれば断れないよ、と」。それで二つの舞台ができたのだという。どんなふうだったのか、式典の様子を調べようと当時の新聞をめくってみたが、残念ながら記事を見つけることはできなかった。

「分裂」のいきさつについて、大田静男「工工四の変遷と八重山節歌の人びと」(『情報やいま』2002年1月)によると次のようである。
――安伴は偶然『八重山歌工工四』を手に入れた。現在、原本と呼ばれる工工四である。安伴は原本を安室孫師の子孫の桃林寺の安室雲月和尚に見せ「このままでは弾くことはできない訂正したい」と申し出た。雲月は「工工四の訂正を許さず、工工四通り弾くことでなければ安室流名乗ることも許さず」といい原本も取り上げた。そのうえ安伴は改ざん者呼ばわりされた。原本(英整本)に作者安室孫師と墨書きしたのは雲月和尚である。原本は安伴の言う通り、弾くことは出来ない。(略)安室流の第一人者と自負している安伴にとって改ざん者呼ばわりは生涯忘れることの出来ない屈辱であったに違いない。――
そのへんの事情を『八重山歌工工四編纂百周年記念誌 あけぼ乃』のインタビュー「工工四編纂のことなど」の中で、大濵安伴自身が「この工工四をめぐるいざこざをきっかけに、私は、安室孫利さんや宮良賢貞さん達から八重山歌の改ざん者呼ばわりされをされ、大浜賢扶君、宮良高林君などの弟子を横取りされるなど、さんざんな目にあい、とうとう八重山を去ることになったのです」と話している。
長久先生は入門してすぐのころに、この工工四(原本)では「あーさらんばん(合わせられないな)」と安伴師匠が言ったのを憶えているという。
「安伴先生は厳しい人だったよ。一徹だから、嫌われたわけさ。かわいそうによ」と長久先生は言う。大田静男は「安伴の芸に対する一徹さは権威主義とも見られ、協和会内部に安伴への不満が鬱せきした」と書いている。ものごとをあいまいにして許容していくというところのある島社会の中で、妥協をゆるさず厳しく歌を追求した大濱安伴は次第に孤立していったのだろう。
 先の「大浜賢扶君、宮良高林君などの弟子を横取り」されたという大濵の認識についてもその一徹さゆえであったのだろうか。大田は「大浜賢扶も玉代勢長傳も宮良高薫に師事し、安伴がいうような『師弟関係』というよりは、隣近所の先輩後輩が一緒に歌三線を楽しんだということであったようだ。賢扶、長傳も安伴から学び、また安伴に歌を教えた。お互いに切磋琢磨したのである」と書いている。
 
 1960年(昭和35)、大濵安伴は失意のうちに島を出た。長久先生はそのとき25歳である。入門から5年、初舞台からわずか2年。師匠の沖縄行きを若き長久先生はどんな気持ちで受け止めたのだろうと上の写真を見ながらついつい想像してしまう。
師匠の沖縄行きについて、長久先生はこんなふうにも話された。「(宮良)高林さんが島を出るとき、安伴先生は三線をつくってあげて、これを持って高林さんは沖縄に行った。そして、『さいきん高林の声が雑になっている』と言って、先生は沖縄に行かれた」と。
大濵安伴からもらった三線を持って沖縄に出た宮良高林は、やがて「ラジオから高林の歌の流れない日はない」といわれるほどの人気歌手になった。その声が雑になっているから沖縄に行くんだと師匠は弟子の長久先生に告げたのだという。

残された弟子たちはその後どうなったか。結論から先に言っておくと、彼らはくじけなかった。そして、師匠とのパイプをより強固にして「八重山古典民謡保存会」を結成し、現在の八重山古典民謡の隆盛を築いていくことになる。
「先生が那覇に行かれて、しかたないから僕ら、石垣正勝さんなんかを中心にして花城美津さんの家で復習会したり、沖縄に行ったときには先生を訪ねて習ったりした」という。師匠なしでも衰えなかった彼らの熱心さを支えていたのはやはり長久先生口癖の「好きやそー」ということであったのだろうか。
今回の話の最後に、そのときの中心的な人物であり、長久先生の三線の恩人でもあった石垣正勝さんのその後を簡単に記しておこう。もちろん長久先生から聞いた話である。
「ちょっとヤマングー」であった石垣さんは、師匠の後を追うように5年後くらいに島を出て、沖縄で再び師匠に師事。レコードを吹き込むなどの活躍をしたが、どうしたわけか福岡に渡って三線を教えていたが、のどを壊して歌三線を断念。しかし、それから津軽三味線を習って師匠になった。「やっぱり素質あったわけさ。八重山で発表会もしたよ。でも早く亡くなってね」と長久先生。60過ぎだったという。
 もしもあのとき島を出ずに今も元気だったとしたら、かつて競輪大会で競い合ったように、長久先生と肩を並べて写真に収まる人生を送っていただろうか……。

はいの 晄

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