戦争する国へまっしぐら

 中国の詩人陶淵明の詩に『帰園田居』がある。自然が好きだった彼はまちがって役人となり、あっというまに十三年が過ぎた。
 籠の鳥は林を恋い、やがて村へ帰り、土地を耕し、路地では犬が鳴き桑木の梢では鶏が鳴く。里には煙がたつ。長い間、鳥籠に閉じ込められていたものから解放され、本来の自分にかえることができた。という内容である。
 私も公務員生活を辞して早や五年の歳月が流れた。陶淵明のように世俗を離れ、李白のようにハスを眺め、月と酒を愛した人物にあこがれ、〈壺中天地〉の世界に籠りたい一心であった。しかしそんな思いは、国や島の状況、特に私がこれまで取り組んできたものが、狡猾な策動や詭弁、政治の力学によって押しつぶされ辱しめられようとしている。私は、壺から蛇のように、鎌首をもたげ情況に向って発言をして来た。
 あるときは酒座で難癖をつけられたり、脅迫状が送届けられたり、嫌がらせ電話もあったりしている。それらのひとたちすべてに共通するのは、国家目線である。国家の政策を鵜呑みにした者たちである。
 小説家埴谷雄高は政治が政治たらしめている基本的な支柱を三つあげているがそのひとつに〈自身の知らない他のことのみに関心をもち熱烈に論ずる態度〉がある。自身の知らない他のことを論ずるために、私たちはまず他人の言葉で論ずることに慣れ、次第に、自身の判断を失ってしまうのが通例であるが、この他人の言葉を最も単純化した最後の標識は、ひとつのスローガンの高唱のなかに見出せる。私たちが他人の言葉によって話すということは、もちろん、他人の思想によって考えていることであるが、そこからつぎのような現代の構図をもつ悪しき箴言を引き出すことができる。
 スローガンを与えよ、この獣は、さながら、自分でその思想を考えつめたかのごとく、そのスローガンをかついで歩いてゆく。
 この《他の思考が》、これまでの政治の原理である。この島を見渡してみればわかるであろう。他人の言葉に慣らされているというのは衝撃である。慣らされないためには自分で吟味し判断することであろう。
 知る権利、自由な思想を縛る「秘密保護法案」が国会で論議されている。これほど危険なものはない。戦前の治安維持法の再来である。今は国防を念頭にしているが「秘密保護法」も国家に都合の悪いのはすべて処罰して行くことになるであろう。この法案が成立すれば、戦時中沖縄に駐屯した第六二師団の文書に「管下ハ所謂デマ多キ土地柄ニテマタ管下全般に亘リ軍機保護法ニヨル特殊地域ト指定セラレアル等防諜上極メテ警戒ヲ要スル地域ナリ(以下略)」とあるように、県民総スパイ視されたが、基地の島沖縄は同じように総スパイ視されはずだ。やがて、アメーバーの権力に都合の悪いのは隠蔽し抵抗する者は弾圧するのが目に見えているではないか。
 公明党も賛成したというから信じられない。支持母体である創価学会初代会長牧口常三郎は戦前伊勢神宮の神札を祀ることを拒否したため治安維持法違反、不敬罪で逮捕され獄中死した。天皇機関説を批判したり、皇道経済の一千万名の誓願、ワシントン条約の撤廃運動、国際連盟脱退を礼賛するなど国家主義に同調した、大本(教)さえもやがて、治安維持法などで弾圧され、建物や墓地も徹底的に破壊された。中山みきの遺骨も掘り出された。大日本帝国憲法は「信教の自由」を認めていたが、それは「国家神道体制のもとでの宗教活動の許容にすぎなかった」(小池健治・西川重則・村上重良編『宗教弾圧を語る』)。やがて、「政府は、思想統制の一環として宗教弾圧を強行して全宗教を弾圧し、国策への奉仕と侵略戦争への全面協力を要請した」(前掲書)
 日米同盟強化、武器輸出、集団的自衛権、戦争する国へまっしぐらに進み、内側からそれを支える秘密保護法、憲法改正。恐怖社会が目前にあるのだ。宗教界もいまこそ考えるべきである。
 十一月一日から、陸海空の自衛隊三万四千人が参加して離島侵攻に対するための訓練と称し、宮古にはミサイル等を持ちこみ、石垣では通信訓練が行われている。訓練など税金の無駄使いである。こんな小さな島嶼に敵が上陸しドンパチが始まったら住民は【死】だけである。三二軍の策定した「南西諸島警備要領」で住民は助かったか、「縣民指導措置要綱八重山郡細部計画」は住民保護が出来たか。出来なかったからこそ平和の礎に恐ろしい数の死者の名前が刻まれているのだ。
「最後の一兵まで戦え」といった三二軍の牛島司令官や長高級参謀長も自決した。八重山旅団長宮崎少将も同じことを言いなが最後の一兵まで戦わず引き上げて行った。遺された住民を待っていたのはマラリアの恐怖と飢餓だけであった。
 米軍占領下の一九五五年米国民政府が策定した「琉球民間防衛計画」は沖縄に駐留する米軍への敵対行動に対し「戒厳令」を布告し、「軍事目標及び都市地域に対して協定による高性能爆発及び燃焼兵器はもちろん、核または核兵器を使用する可能性がある」(一九七九年三月七日琉球新報)とある。細菌爆弾や、核兵器を使用すれば、沖縄は地球上から姿を消したはずだ。尖閣諸島領土を巡って、日米中が戦えば島は終わりだ。
 最後に、離島作戦訓練中の「隊員の弁当や機材の燃料は地元での調達になるため、地元の関係企業には「特需」が見込めそうだ。」(一一月六日八重山日報)とある。こんな不真面目?な訓練ってあるだろうか。嗤う以外ない。

大田 静男

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