八重山群島政府知事に当選した安里積千代の当選証書式及び就任式

 沖縄の自治制度を定めることを目的として一九五〇年(昭和二五)八月四日、米国軍政府布令第二二号に基づき「群島政府組織法」が公布された。それにより奄美群島・沖縄群島・宮古群島・八重山群島が置かれ、知事の公選制や住民の直接請求権、議会の定例会の制度などが施行された。それは布告・布令・指令などに基づき、その区域内の公共事務を処理し、行政事務を行うものとされた。群島知事・群島議会はともに公選であり、住民の意思を反映する組織だったが、それはあくまで軍政の範囲内であり、その権限のおよぶ範囲は限られていた。
 八重山群島政府が発足したことで知事選挙が行われることになった。当時の八重山は自由党と民主党の激しい「白黒闘争」の時代で政治の季節だった。知事選に出馬したのは自由党が公認する総裁の安里積千代と、民主党が全面的に支持する前民政府知事の吉野高善の二人。選挙戦は、闘いの激化を裏付けるように、街頭では激烈な舌戦を繰り広げ、ビラ撒き合戦を行うなど、激しさを増した。
 自由党が「知事は収税官吏であり吉野候補に被選挙権なし」と号外をとばせば、民主党は「安里候補は不法入島及び居住権問題で被選挙権がない」とビラを撒くなど、誹謗中傷の合戦となった。開票は一九五〇年(同二五)九月十七日に行われ、安里積千代が一万九十七票、優勢を伝えられた吉野高善が九千七百八票となり、三百八十九票の差で初の公選知事には安里が当選した。
 初代の公選知事に任命された安里積千代の就任式は、十一月七日に石垣市の登野城小学校で行われた。また、選挙の結果、与野党の議席数が逆転した群島議会は、十一月二十二日に招集され、議会で安里知事が初の施政方針演説を述べた。
 内容は次の通りだった。「施政の方針は差し当って前政府の後を受け継いで復興事業の完成に力を入れる事であるが、八重山群島が地理的に資源的に全琉において最も□張して価値ある所に鑑み産業の開発、貿易の振興に力を致さねばならないと思う。〈中略〉本議会には新政府組織早々であり組織法によって早急に整備せねばならない案件のみ取り敢えず提案したようなわけで、政府としては議員各位の理解ある批判や建設的意見に対し常に誠意を持ってのぞむ積り、あ□から□ふの意のあるところを汲みとられ慎重御審議の上協賛の実をあげるよう御願いしたい」と述べ、一部の人事案件を否決したが、その他の政府原案は修正もなく通過し、初議会は終わった。
 安里知事は、その後、一年四カ月にわたり知事を務め上げ、一九五二年(同二七)三月二日付けで辞任。同年三月三日に施行された立法院議員選挙に第八区(八重山)から社大党公認で出馬し、当選を果たした。

竹富町役場 通事 孝作

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