ここ二ヶ月間に、私に大きな影響を与えた先輩たちが次々と亡くなった。生あるものが死を迎えるのは必定であるが、それにしても、悲しい。「グショウやアマダルぬシタンガドゥアル」(後生は廂の下にある)という八重山の諺があるが、死者たちに生前は語れなかった諸々の事を語りたいと思う。
でも、後のまつりである。幽明境異にするということをしみじみとかみしめる。
身辺整理をしておこうとダンボールに詰めてあった本や切り抜き、資料を取りだして目を通す。どれを手にしても、懐かしい思い出がよみがえりなかなか捨てることができない。
本の間からヒラとおちた新聞切り抜きに目を通す。1989年11月30日の朝日新聞の切り抜きである。一九六五年沖縄近海で、水爆搭載機が水没事故を起こしたという記事である。
証言したのは米空母タイコンデロガの元乗組員ウイリアム・レーン氏。その記事によると、事故直後にタイコンデロガの艦長が「爆発の可能性はあるか」と艦内電話で問い合わせたなど当時の緊迫した模様を明らかにした。レーン氏は〈同空母は、三十~五十発の核爆弾を積んでいたはずだ〉との指摘を繰り返した。
航海日誌によると、事故は十二月五日の午後二時五十分に起きた。レーン氏は「攻撃機落下直後、艦内はパニック状態になった」と語る。すぐに全員が定位置につくよう指令が出た。皆から遅れて走っていると、下士官が当直士官に対して「レーンはここにいる」と報告。その後レーン氏が飛行中隊長らと同じ部屋にいると、艦長から中隊長に電話がかかってきて、爆発の可能性を尋ねた。中隊長は電話の送話口をおさえて、近くにいた武器士官に聞いた。武器士官が両手でバツをつくつて返答。中隊長は艦長に「爆発の可能性なし」と報告した。なぜ水爆搭載機が、エレベーターから海面へ落下したのか。空母が波に揺れて、艦載機がスリップした瞬間「ブレーキを踏め」とそばにいた下士官が叫んだ。パイロットはブレーキを踏んだが、「足が届かないと訴えるような驚がくの顔つきが、操縦席の彼の最後の表情だった」と記している。
『ウィキペディア』によるとこの事故は一九八一年国防総省の報告書で明らかにされ、一九八九年に水没した位置が明らかになった。それによると、位置は北緯二七度三五分二秒、東経一三一度一九分三秒とされ、鹿児島県喜界島の南東一五〇キロ付近であるとされる。ベトナム戦での任務を終えて横須賀基地に帰る途中の事故であった。水没海域は水深五千メートルといわれ、回集は不可能とされた。放射能汚染はないと『ウィキペディア』は記している。
九月六日放送のBS歴史館「暗号名ブロークン・アロー隠された核兵器事故」を見ていると米国の公開された文書によれば世界中で三二件の核兵器事故があるという。報告書には空母タイコンデロガの事故が記載され、事故の日付は一九六五年一二月五日である。徳之島近海への水爆搭載機水没は非核三原則で、核の国内への持ち込みを禁止していた日本政府の政策と全く矛盾するものであった。当然日米両政府が、国内持ち込みはないだの、軍事機密だのと国民をだました。放射能汚染はないと『ウィキペディア』のように何故断定できるのか。事故から数十年が経過し、世界中の事故地ではさまざま被ばく汚染があらわれ深刻な問題となっている。政府は水爆水没事件も検証すべきではないか。
核といえば、一九八〇年代に西表島に核燃料第二再処理工場建設計画がもちあがり、反対運動もあり断念した経緯がある。日本の使用済み核燃料をミクロネシア近海の海中に投棄する計画もあった。過疎の地域、経済的に貧しいといわれる島々を、日本は札束で顔をはたき、侮蔑しながら推し進めようとした。自分のゴミを他人の庭に投棄するという無神経。核のゴミを東京湾に投棄したらどうなるか。考えて見ればわかることだ。
五輪招致運動で、安倍首相は福島第一原発の汚染水問題で安全性を強調していたが、地下の水系にまで達した汚染水がさらに拡大する恐れがあることを、多くの科学者は指摘している。
東京五輪を成功させるために国民が心をひとつにしなければならないという報道を読み、聞くたびに、憲法改正や国民を縛り付ける法律が五輪熱に浮かされ、いとも簡単に国会を通過する危険性がある。
一九六四年三波春夫の「東京五輪音頭」に浮かれている間に、米国のベトナム戦争の準備は着々と進み、日本政府は米国の原子力潜水艦の寄港を許可し非核三原則は、なし崩しとされ、翌年には米国の北ベトナム攻撃が始まった。沖縄は最前線基地となり、憲法空洞化が進んだ。
「もてなしのこころ」などに浮かされてはならない。