なんとま~暑いことだろうか。こんな暑いなか行われた、参議院選挙、自衛隊誘致をめぐって島を二分した与那国町長選挙が行われ、参議院選挙は革新の糸数慶子が予想通り、勝利。比例では日本維新の会と手を組んだ、下地幹郎率いるそうぞうの儀間光男が当選した。普天間基地の辺野古移設推進を主張した候補の当選である。
国場組に次ぐゼネコン、大米建設をバックとした下地が普天間基地の県外移設どころか、嘉手納統合案やら安波案やらで、県内政界をかき乱した、恥も外聞もないゼネコン政治屋たちの触手がまた、国政で沖縄をかき乱すのかと思えば、憂欝になる。
自衛隊誘致に迷惑料十億円を要求したり、町長選挙に立候補はしないなどと盛んに吹聴していた外間守吉前町長が舌の根の乾かぬ間に前言を翻し、自衛隊誘致を理由に立候補し47票差で当選した。
ゆすりたかりの名人とホームページで外間を大々的に批判していた与那国町防衛協会は、ゆすり、たかりの名人の誕生に批判どころか、胸をなでおろしているだろう。
政治屋というのはどうして、こうも恥も外聞もないのだろうか。厚顔無恥と政治屋は同義語であろう。
権力の座に就くと、ひとが変わったとはよく聞くことばだ。スターリンの例など持ちだすまでもないだろう。
鼻もちならない者が、ただ、権力の座にあるということだけで、ひとをあごでこき使い、会議に出てきて、二日酔いでなにが不満なのか当たりちらす。
シモジモはその剣幕に恐れをなして、媚びを売り、賄賂を贈り、木下藤吉郎のように草履をとる。
権力の座とはまことに下界がよく見え、シモジモの民草をどうにでもすることができる。なんとま~居心地のよい座であろうか。権力病、名誉病というヤンマイ(病気)にとり憑かれたひとと付き合うのは難儀ですな。
そういえば、山之口貘の詩「座布団」は、土の上には床がある/床の上には畳がある/畳の上にあるのが座布団でその上にあるというのが楽という/楽の上にはなんにもないであろうか/どうぞおしきなさいとすすめられて/楽に坐ったさびしさよ/土の世界をはるかにみおろしているように/住みなれぬ世界がさびしいよ/――とうたっている。
ルンペンや汚わい屋など、権力とは縁のない世界に生きた貘らしい詩である。
一方、伊波南哲には『詩集 麗しき国土』がある。そのなかに、「聖なる日」という詩がある。
われは見たり/聖なる祝典の日/畏くも玉座の上を/一羽の鷹/悠々と輪を描いて/空翔ける雄々しき姿を―。津々浦々の民草/その日、聖域にはべり/玉音を漏れ承はり/身の光榮に感泣するとき/畏くも玉座の上には/一羽の鷹/悠々と輪を描いて/八紘一宇の理想を示せり。/われ、聖なる日/禁闕に衛士となりて/世にも類ひなき/身の光榮に哭けり。/神武創業の大理想/悠久二千六百年を貫き/空翔ける鷹の輪のごとく/地球の上に羽搏く日本/皇国の進路こそ貴し。
近衛兵から、警視庁の巡査となり、戦時中は積極的に戦争を鼓舞する詩を書いた南哲の〈愛郷愛土〉ともいうべき思想は国家にまるごと吸い上げられ転倒させられ天皇を讃美し、その先兵となる喜(悲)劇を演じざるを得なかった。
貘と南哲という二人の沖縄詩人を通して、権力の座を見る視線がかくも違うのは、ルンペンプロレタリアートの貘と、近代という巨大な歯車のなかで田舎(沖縄)の〈名誉〉を絶えず背負って生きてきた(生きざるを得なかった)南哲の資質がそこには現れているだろう。
尖閣領土問題、教科書問題、伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑建立などを通して、〈お隣さん〉がよく見えてきた。
南哲の八重山農林高校校歌、愛郷愛土の共同体への愛がいつしか共同体の連合組織である国家愛へと転化し、そして「麗しき国土の民は/大君に仕へまつり/中心に歸一し奉る/たヾひとすじの信念に生き/その信念のためにのみ死んでいく。(以下略)」(麗しき国土)、とならないためにも、視座を絶えず点検しなければ南哲のきた道になりかねない。