大阪商船(株)が保有した湖北丸は一九一五年(大正四)三月三十日に起工、同年八月二十六日に進水、十月十五日には竣工を終えて神戸~高雄間の処女航海に出た。船の規模は総屯数二,六一〇トン、速力十二ノットを有する近代的な船舶であった。一九二八年(昭和三)十一月から一九三一年(同六)五月までの二カ年間半は、神戸~フィリピン定期航路で活躍した。
日本からフィリピンへの輸出品は野菜類、洋灰、硝子器、綿糸布、燐寸、寒天、古麻袋などで、輸入品は木材、マニラ麻、パルプ、コマナット類だった。一九二九年(同四)には地下足袋を初めてフィリピンに輸出した。同船は、フィリピン定期航路で使用されていたが、その後、沖縄航路向けに改善されて航行した。一九三一年八月現在、船長は中野大八だった。
フィリピン航路を終え、大阪~基隆線に切り替わった湖北丸が一九三一年八月七日、石垣港に姿を現した。当時の『先島朝日新聞』は八月八日付けで、「優秀船湖北丸昨日朝、石垣港に勇姿を現はす」と報じた。一九三五年(同一〇)六月には神戸~沖縄の航路を航海し、一九三七年(同一二)六月になると、鹿児島~名瀬~那覇の航路に変更になった。その時、石垣港に再び寄港し、大型船の威容を八重山住民に披露した。一九三八年(同一三)一月には神戸~沖縄、一九四一年(同一六)九月には大阪~那覇の航路になった。 日本は、それ以前から軍事優先で軍国主義の道を歩み、アメリカやイギリスらを相手に一触即発の状態にあった。そして、ついに一九四一年一二月八日、アジア太平洋戦争に突入した。湖北丸は一足早く一九四一年九月二十九日に陸軍に徴傭され、対アメリカ開戦後は南方への兵員や物資輸送の任務に従事した。一九四二年(同一七)には宇品、門司、大阪、それに台湾の高雄と中国の大連、南京、上海、青島、朝鮮の釜山、台湾の基隆など三十余りの軍事航海をこなし、時には病院船の役割も担った。一九四三年(同一八)になると、一九四一年と同様な航海を繰り返し、戦況は一段と厳しさを増してきた。
そして一九四四年(同一九)一〇月八日、船団航行していた湖北丸はアメリカ潜水艦の雷撃を受けた。三本の魚雷のうち二本は回避したが、残り一本が命中爆発すると、全速で航行していた湖北丸はそのままのスピードで船首を海面に突っ込みわずか一分半で沈没した。民間人三六一人を含む四一七人の犠牲者を出した。沈没した海域はフィリピンのルソン島ボヘアドール岬西方三八〇㎞付近であった。また、同型の姉妹船・湖南丸も一九四三年(同一八)暮れに、多くの沖縄の少年少女を乗せて沈没した。