旅役者のようにあちらこちらを飛び回っていたら、疲れが一気にどっときた。あちらこちらから様々な情報が寄せられるのだが、頭がカスミがかったようで、輪郭がつかめない。新聞も読む気がしないし、無気力で酒に溺れる老人になりつつある。
空梅雨だけに散歩もいやだし、人生やめた方が好いかも知れない。
妻が、年金も貰わないであの世に行くの、せめて貰ってから行ってよといわれる始末。真顔でいわれると、それもそうだなと妙に納得。ジン・カニの欲望のために、では生きてしんぜよう。
私のようなただの人の、そんなささやかな欲望は許されると思うが、国家が欲望むき出しに、領土、領土なんて騒いで、ワッタームンワッタームンと無駄なエネルギーやら無駄な予算を使用しているのを見ると、アホらしくてかなわん。
そんな戦争費用があれば、飢餓や戦争難民たちのために、使用すればいいのだ。
ミサイルを三発撃ち込まれたら終わりの島に自衛隊を配備して、領土を護るなんていったい誰から誰を護るのか。
アッタラ、大切な人生、国家に勝手に奪われて死に追いやられてたまるものか。ナ。
死んで「悠久の大義やら」とか称賛されたってどうしようにもならない。六月二三日の慰霊の日に「あなたたちの犠牲のうえに今日の日本の繁栄がある」なんていうそらぞらしい弔辞を聞くと腹がたつ。死んだ者が生産するはずがない。生きている者が今日を築いたのである。
非業の死を遂げた者たちを讃美すればいいということではない。
さて、松島泰勝龍谷大学教授の琉球独立論が静かな広がりを見せている。琉球独立は戦後、琉球国民党、琉球独立党など、泡沫的な感があったが、松島教授の提唱する琉球独立論はなかなか説得力があって頼もしい。
八重山日報に松島教授のインタビュー記事が掲載されると、ただちに宮良長和という医者が独立絶対反対の長論文を掲載している。宮良医者のこれまでの論文は国家目線、上から目線である。
今回も同じで、中国脅威論を煽り、最後は「我々が今なすべき事は、この愛する郷土を守り抜く為には、命も捨てる覚悟であり、その為の準備である」なんて書いている。
愛する郷土ではなく、愛する国家でしょう。
そのうえ、「過激なことも書いたが、私にも子供や孫も會孫まで居る。平和を念ずることに於いて決して後に落ちるものではない」などとも書いている。
このひとにとって、戦争体験、戦後体験とはなんであったのだろうか。このひとは、沖縄の痛みや悲しみというものをまったく感じないらしい。オスプレイ賛成、軍事基地賛成である。騒音など基地被害に悩む基地周辺のひとびとの気持ちなどまったく理解できないらしい。
国家のためには我慢しろということであろう。戦前の皇国史観まるだしではないか。
「さて、最近の沖縄は帰化人の子孫と言われる知事を始めとして、中国に親近感を抱く人々が意外に多い。那覇の私の甥もそうである。彼を保守に改心させようと行く度に説得したり正論の会に誘ったりするが、頑として応じない。最近は呆れて誘うのを止めた。日教組の教育を受けるとこうなるのかと、最近の教育の持つ影響力にほとほと感じ入っている次第である」
思わず笑ってしまった。
天皇を見た事もないのに、尽忠奉国とやらで、天皇のために死ぬことを教育され、国家目線でしか今もって語ることのできない曾孫までいるひとに、軍国主義教育の恐ろしさを禁じ得ないのだ。
伊舎堂用久中佐顕彰碑が建立されるという。八重山防衛協会会長の三木巌氏が期成会長だそうだ。彼は「子供たちにも伊舎堂中佐のおかげで、日本の平和があると教えなければなりません」と述べている。
冗談じゃない。伊舎堂中佐の辞世句「指折りつ、待ちたる機ぞ来る 千尋の海に散るぞたのしき」という死を讃美する句など、未来を担う子供達に国家のために死を称賛することは許せない。
こんな時代遅れ、人間の命を国家に捧げるものだという潮流は恥も恥である。