西表島南西部の船浮湾にある船浮要塞に勤務した将校たちである。将校は階級ごとに陸軍の大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉まで、およそ士官三十余人。その他、下士官ら兵士が多人数いて、それぞれの軍命に基づき一九四一年(昭和一六)~四四年(同一九)まで軍務をこなしていた。写真の場所は、外離島にある兵舎の前と思われる。後方にある大きなトタン葺き建物が、それであろう。
船浮要塞は、天然の良港といわれる船浮湾を囲むようにして祖納半島、内離島、外離島、サバ崎に設けられた日本陸軍の軍事施設。時の政府は一九四一年(同一六)七月、沖縄本島中部の中城湾とともに、船浮湾にも臨時要塞令を下し、要塞の建設に乗り出した。そして、陸軍省陸軍築城本部臨時要塞支部の要塞建設の資材を積んだ軍用船が仲良港に入港した。資材は祖納、内離島、外離島、サバ崎に陸揚げされた。
要塞の任務は、東南アジアなどからエネルギー資源の石油等を運ぶ艦船の待避、停泊などを守備することにあった。要塞は船浮湾を囲んで四区の拠点が陣地構築され、司令部は第一区として内離島に置かれた。司令官は下永憲次(陸軍大佐)。このほか重砲兵連隊(隊長・山崎豊吉陸軍少佐)、高射砲隊、歩兵隊、陸軍病院も配備された。第二区は重砲兵連隊第二中隊(隊長・北村杢角陸軍中尉)が祖納で守備を固め、第三区は重砲兵連隊第一中隊隊長・小野藤一陸軍中尉)が外離島で陣地を守っていた。第四区はサバ崎守備隊として山下、上田両少尉が要塞の任務を遂行していた。陸軍病院は内離島を拠点に、連隊医務室を祖納に置き、隊付き軍医は各隊を巡回診療した。その時、マラリア防遏所の協力を得てマラリア対策に乗り出した。
要塞はその後、各区・各隊の人的な入れ替えなどがあったが、一九四四年(同一九)六月頃には連隊を中心とした重砲兵連隊の大幅な編成替えがあった。第一中隊(中隊長・小野藤一大尉)、第二中隊(中隊長・鉄田義司中尉)、第三中隊(中隊長・安岡幸吉中尉)と任務が変わった。しかし、アジア太平洋戦争が泥沼化し、要塞の南方への海上交通の要路としての戦略的地位が失われると、一九四四年(同一九)五月八日に丸山司令官の転出に伴い司令部は解消した。
重砲兵連隊は、防備強化の中心が石垣島に移ると、名称を重砲兵第八連隊と替え、主力部隊を石垣島に移駐。陣地を於茂登前山に構築し米軍の攻撃に備えた。西表島の船浮要塞は約三ヶ月かけて構築されたが、その施設は近代戦用のものではなかった。作戦の重点が石垣島に移ると、いとも簡単に見捨てられた。