バージャー首席民政官の来島

バージャー首席民政官の来島

 米軍統治下だった日本復帰前の一九五五年(昭和三十)五月、米軍民政府のバージャー首席民政官が八重山へ初めて巡視を目的に訪れている。その時、来島の趣旨を「八重山の諸問題を解決するために、ありのままの実情を確認したかった」と語り、問題解決に尽力する旨を強調している。そして、地域住民らと膝を交えて懇談会を催し、あらゆる問題を話し合っている。
 豊原集落には五月二十五日に訪れた。写真は首席民政官を取り囲んで、地域住民と親しく記念撮影したもの。住民のどの顔も笑顔で、写真から懇親を深め合ったことが伝わる。写真の子供たちは今では五十歳台を超え、脂の乗り切った働き盛りを迎えていることだろう。
 豊原は、戦後の琉球政府による計画移民に基づく南風見地区開拓で生まれた集落。一九五三年(昭和二八)三月の入植で竹富町のほか、沖縄本島の北部・中部、宮古、それに奄美大島の人々によって作られた移民団が荒地を切り拓いて、耕地を広げて村づくりが始まった。集落の名は「豊かな平原」になることを祈って名づけられた。「豊原」の名はこのような住民の想いが込められている。
 集落は創建して三十年の節目に大きな事業を実施している。それは入植三十周年記念事業で一九八三年(同五十八)にその時を迎えた。その際に集落を挙げて大いなる飛躍することを誓い合った。入植記念事業に向けては入植三十周年記念事業期成会を発足させて取り組んだ。当時の保久盛長正期成会長(故)は「三十年の節目を契機に振興集落からひとり立ちできる集落を目指し、期成会をスタートさせた」と語っている。
 首席民政官が来訪した時、地区では中型製糖工場設置促進委員会が結成され、サトウキビ栽培に全力を傾注していくことを確認している。地域振興にかけては、地区を挙げて取り組む熱意に燃えていた。首席民政官も住民との懇談会を行い実情把握に努めた。中型製糖工場については、後になって西表糖業㈱の設置で結実している。
 首席民政官は四年後の一九五九年(同三四)にも八重山入りしている。その時は離任あいさつの来島で、西表島東部、波照間島、黒島にも足を延ばしている。
 西表島東部への来島と直接に関係ないかも知れないが、バージャー主席民政官は一九五六年(同三一)に琉大学生処分問題に関わっている。この中で、琉大に強権介入し、(1)共産主義の扇動者たちが大学を支配することがあってはならない、(2)扇動者たちを大学から永久に追放すること――などを突きつけた。結局、民政官の意見どおりとなり、大学自治は蹂躙された。これがバージャー主席民政官の見えない隠れた、もう一つの顔である。

竹富町役場 通事 孝作

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