外離島の小野部隊へ
昔から鳩間の人は西表にわたって田んぼをつくってますから、戦争が激しくなった昭和19年の暮れには避難命令が出て、みんな西表の田んぼのそばに掘っ立て小屋をつくってそこに避難したんですよ。私はそのとき高等科2年で15歳。授業もないですからね、軍隊というのがどういうところであるのか興味もあって、20年の2月、ひとりで外離島の部隊に行った。船浦から歩いて、白浜で一泊して、艀に乗って内離島に上陸して、内離島からは干潮になると外離島に渡れますからね。
17歳以上はもう祖納の護郷隊に召集されていて、私たち年下の者は志願すれば軍属としてはいれた。学校に来て避難命令を出した小野隊長は、自分で決めたら来なさいということであったですよ。同級生が8名いたんですが、志願したのは私ひとりでした。
小野隊は、トタン屋根の長い兵舎が何班何班と分かれていて、上のほうには大砲(2つ)もあって、そのとき兵隊が朝礼していましたよ。「鳩間から来ました」と言ったら、炊事係ということでね、炊事班長というのがいますからね、その下について、毎日4時起床でご飯炊き。大きな樽に米を入れて、ふたりがかりで洗って、大きな鍋2つでご飯を炊くんですよ。部隊は6班まであって、兵隊の食事は1日3回。夜ご飯は雑炊みたいなものでしたね。
かわいそうだったのは台湾人と朝鮮人。白浜には炭鉱の台湾人がたくさんおったから、軍に徴用された彼らは1日3回、雑炊だけ。米が入っているか入っていないかくらいちょっと入れてね、芋の葉っぱと。兵隊とは別のところに寝泊りしていましたね。
炊事場で洗い物をしていたらね、そばに立っていてね、茶碗に残った米粒を水で流して食べるくらいであったからさ。「ワー(私)白浜ね、バナナた(く)さん作るね、あなた白浜来る、た(く)さんあげるね。コレご飯残るね、ご飯くれ」。あんなに言ったのが忘れられないさ。あんなくらいね、かわいそうであったよ。
宇奈利崎監視所にて
外離島に4か月ぐらいいて、私は(鳩間)島が見えるところがいいからと、宇奈利崎監視所に移ったですよ。監視所では、大阪出身の上等兵(小野隊はほとんど大阪兵なんですよ)と、宮古の兵隊(1等兵)、私と、私と同じ齢の軍属、みんなで4人。監視所は3坪くらいの茅葺きの掘っ立て小屋。そこから30メートルほど離れたところに通信隊のようなものがあって、伍長と上等兵、2人いましたね。
監視所の仕事って別にないですよ。ただ見張りだけですから、アメリカの船とか飛行機が来ないかただ望遠鏡で見るだけですよ。望遠鏡1つを交替で見る。あとは荒れ地を耕すだけ。食料困難ですからね、芋を植えてですね、それを収穫もしないうちに終戦ですからね。
私は監視はやらないで、食料班ですよ。「あんたは監視しないでいい。食料探して来い」と。野菜も何もないですから、芋の葉っぱをもらってきて、汁に入れる。米はカマス(藁で編んだ袋)に100斤ずつ。積んでおいて、節約して食べた。また、当時、姉さんたちが船浦にいましたから、ときどき歩いて行って芋をもらってきて、米に芋を混ぜて、兵隊に感謝されましたよ。
魚を食べたくなったら、「おい、鳩間君、下の浜に行って、知り合いがおったら魚を捕らせ」と言われてね。ダイナマイトを持って、浜まで200メーターくらいありましたからね、当時、向こうには宮古の人たちが避難小屋をつくっておったんですよ。掘っ立て小屋が7つくらいあったでしょうかね。水も豊富ですからね。ダイナマイトを渡して、頼んで、ボラなんかがたくさんおるでしょ、捕れたらね、5キロくらい取ってね、残りは、「この魚を売って何か買って食べなさい」と。喜んでね、「ああ兵隊さん、助かります」と。こんなにがやっておったですよ。兵隊はいくら捕れたかわからんからね。
朝鮮人を鹿川に置き去り
終戦になって外離島の本隊に集まれということで集まった。そのときに知ったんですが、かわいそうに、朝鮮人6人が鹿川に置き去りにされた、と。朝鮮の人が知ったら大変だろうなと、だから私これ憶えているんですよ。
戦争のときに、朝鮮の船がコース違いして白浜に入ってきたんですよ。そしたら日本軍が船も食糧もみんな没収してね、9人の船員を奴隷のように使ったんですよ。そして3人は栄養不良で死んで、戦争負けたでしょ、アメリカにその情報が入ったら大変だということで、鍋と4斗袋の米をいくつか渡して、6人を鹿川に連れて行った。そのまま犬死じゃないですかね、道もないですからね。アントン丸? さあ、船の名前は忘れました。
その後、夜になると、エッサ、エッサという声がどこからともなく聞こえてくるという噂がでて、朝鮮の船から荷物を運び出すときの声だと、衛兵たちは気味悪がっていましたね。
武装解除のときは、鉄砲から銃剣から全部並べておいてよ、アメリカの舟艇が来て、全部積み込んでよ、(海の)深みに持って行って、捨てるところは見ていないが、捨てたらしいよ。戦争が終わって10日くらいたっていたんじゃないですか。アメリカ人は目が山羊みたいにおるでしょ、そして身長も高いでしょ、「アキサミヨー、アンシ大サルヤー(ひゃー、こんなに大きいとは!)」と言って。みんな白人でしたが、怖かったですよ。
こんなこともあったですよ。終戦後になって、各部落から区長などが来るときがあるんですよ。偉い人なんかが来て食事をするんですよね。そのとき、隊長が「○○君来なさい」と呼んだわけさ。炊事係ですよ。私ずっと見ておったんですよ。そしたら隊長が茶碗をその炊事係に投げたんだよ。あとで聞いたらね、芋虫の半分が入っていたと(笑)、今でも忘れられないさあ。
島に帰ったのは10月くらいじゃないですか。それまでは祖納で田んぼ、2期作まで植えてウチら島に帰った。戦争負けたのになんでやらんといかんか、と。あとで聞いたらね、あれを刈り取ってお酒つくって飲んだという話だったよ。しかし、島に帰ったら、はあ、マラリアで大変でしたね。