121 国の名勝・仲本家庭園

国の名勝に指定された仲本家庭園は道路拡張や新築工事などによって、石の配置や築山北側の一部が削られたりしている。それでも宮良殿内庭園や石垣氏庭園などと地割、石組等と同じ様式を残しており、八重山の庭園文化を知る上で貴重な庭園である。
 八重山には「庭作不審書」や「雲渕堂假山序」、「巣雲園記」など作庭に関する貴重な文書が残されている。「庭作不審書」は城間親雲上から大浜親雲上に宛てた作庭の問答書である。この書の末尾に「右之条々者当家相伝之雖為秘書、其元庭作依不残御執心令相伝候条、聊他見有間敷者也」とある。大浜親雲上が庭作りに執心していたことがわかる。
 城間親雲上は向氏城間親雲上朝悦である。石垣家には三名の大浜親雲上がおり、それをめぐって諸説があるが、私は城間親雲上の位階や文書が書かれた〈申〉年から、城間親雲上が宛てた大浜親雲上は長季で、作庭年代は一七七一年の大津波以前であると思う。
 「巣雲園記」(一八〇〇年代)は首里の伊江殿内庭園の様子を「雲渕堂假山序」(一八一五)は宜寿次親方朝得の庭園を藤原廣通が叙したものである。八重山に残る「雲渕堂假山序」写本の末尾に「干時文化十二年乙亥初春日於
球陽旅館書之 藤原廣通判 宜寿次親方雅丈 右秘傳書壱巻他見乍無用依思召書写候畢 嘉慶弐拾四乙卯年上国之節謹而写之候也 上官氏若文子大浜仁屋正喜」と記されている。
 正喜は家譜によると乾隆五五年(一七九〇)生まれで、嘉慶二五年(一八二〇)若文子、道光四年(一八二四)には小浜目差となっている。二十九歳の時の写本である。
 さて、仲本家庭園の仲本家は上官氏惣横目川平与人正憙の三男石垣親雲上正房を小宗とする。正房は一七七五年生まれ。一八二一年石垣間切頭となり、一八三八年六四歳で死去した。正房の長男正栄は一八三九年父の後を継いで石垣間切頭職に任じられた。親子合わせて二十四年間仲本家は石垣間切の頭職という要職にあった。正栄の後を継いだのが正房の長兄正胤(上原與人)の長男正方で、一八四八年石垣頭となった。さらに、正房の弟で四男の正保が夏林氏を継ぎ、賢保と名乗り、一八五四年宮良頭職についた。正房の弟五男が「巣雲園記」、「雲渕堂假山序・假山記」を筆写した大浜仁屋正喜である。彼もまた一八三九年大浜頭職となっている。
 仲本家庭園がいつ作庭されたかについては資料がなく確定はできない。しかし、正房が石垣間切頭職に就任した年に、弟正喜は「雲渕堂假山序」を筆写していることから、作庭への関心がたかまり、正房、正栄の頃に庭園は完成した物と思われる。親子、兄弟、親族が三十余年、八重山三間切の頭職を始め要職を占めたことが、大津波後とはいえ、労力を確保することを可能としたことは否めない。
 正喜の家は麻文仁家(マブネーヤー)と呼ばれ、見事な庭園があったというが、宅地造成で壊され、現在は、陽石がわずかに残るのみである。仲本家庭園は、石垣氏庭園、宮良殿内庭園と地割が同じであり、枯山水様式である。宮良殿内庭園は池があったとの伝承があるが、発掘が出来ないため不明である。仲本家も池があったと言われるが、今のところ確認できない。
 石垣、宮良両庭園の作者は城間親雲上だと言われるが疑問が多すぎる。同じように仲本家庭園もまた作者不明である。
 しかし、八重山のひとによって造られたものであろう。庭石の運搬、築山の造成、石組、植栽等にどれだけの人員が動員されたか、日数、費用など一切不明である。これからの研究課題であろう。宮良殿内の家葺き替えの時の面留帳のような記録が出てくればと期待するのだが…。
 琉球の庭園は京都で作庭技術を学んだ相良市郎兵衛が薩摩藩初代御庭奉行となり、その、相良から作庭秘伝を習得したのが、雲淵堂朝得(宜寿次親方)で大浜仁屋正喜が筆者した「雲渕堂假山序」は宜寿次家の庭について記したものである。
 石垣、宮良両庭園は北村綬琴の『築山庭造伝』(一七三五)に掲げられた京都本國寺の搭頭勧持院の石組や構成と同じである。ヤマト系統の庭園であることは間違いない。しかし、八重山人の美意識、石への畏怖。研究課題は山積みだ。

大田 静男

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