「どう考えても信じられないよ」。
息子はぼくの話しにかなり動揺したのだろう声がうわずっていた。
「煙草を押しつけられた黒人は黙っていたの?」。
「ああ黙ってもみ消された吸殻をスクリーン脇のゴミ箱に捨てると同じ場所に戻り、何事もなかったように映画を観ていた」。
スクリーンから洩れる明りを頼りに、半袖姿の黒人が吸殻を捨てに行く後姿をぼくは身じろぎもせずに眺めていた。
白人の吸っていた煙草を掌でもみ消されても、苦笑いでしか応えられない人種差別を目の当たりにして、ぼくは怒りで震えていた。しかし、黒人と同じように何もすることができないこともそれに拍車をかけていた。
「俺なら絶対許さないけどな」。
息子は釣りのことなどすっかり忘れたようにやたらと憤っていた。街灯の薄明りしかなかったが息子の表情は手に取るように想像できた。
かつて上京した折、沖縄に対する偏見に遭遇したことは何度かあった。しかし、人格を傷つけるまでの言動はなかった。もし、それがあったならぼくは暴力をもってでも抵抗したであろう。
「米国という国は素晴らしい自由に充ちてもいるけど、多くの矛盾もかかえているんだよ」。
ぼくは息子との会話を広げようと自分の意見を投げたが、返事はなく波の音だけが届いた。
「アメリカはどうしても好きになれそうにもないよ」。
息子は釣り竿を点検しに立ちあがり、ふたたび戻ってくると独白のように洩らした。ぼくは短絡な結論を戒めようと口を開いた。
「コインに表裏があるように物事はいろんな見方ができる」。
「じゃ、煙草を押し付けた白人は正しいと言うの?」。
「正しいとは誰も思わないだろうが、仕方がないと思う人はいるかもしれない」。
「そんな事あり得ないよ!」。
ぼくは声を荒げる息子の若さに羨望していた。若さとは単純で短絡な場合もあるが、それが熱となり既製を打ち破ることもあり、純粋な怒りが社会を変えることもあるのだ、と声援を送っていた。