イダリー、バッカイシャ

「新自由主義史観」をうたい文句にするが、「侵略肯定史観」ネオジャポニズムともいうべきひとたちの執筆した時代錯誤教科書育鵬社の「公民」採択をめぐり八重山中が白黒闘争に突入した感がある。八重山ではかつての中央教育委員選挙問題、不当配置転換問題、沖教祖分裂策動などいつも時代の曲がり角には政治の巧妙、狡猾な介入があり、やがてそれは全琉球の根幹を揺るがす大問題となり、そして茶番であった。
 権力の走狗はいつの時代でもいる。フィルムを巻き戻してみれば明白である。ひとびとを扇動し、分断し対立させながら、高みの見物をしながら肥え太って行く。
 だれがどうしたか、そして裏切ったか島社会のしがらみの中で云えないだけである。健忘症ではない。
 教科書問題、発端のすべては玉津教育長の狡猾、巧妙な策動にある。そして、説明責任を果たさず、議事録も公開しないといきまいている。九月八日の八重山教育委員協議会の教科書一本化へ向けた協議会を傍聴した。
 そこで目の当たりにしたのは、石垣市の玉津教育長の傲慢、不遜、責任転嫁、そして、〈出所〉を伏せた文書を示しながらあたかも文化省からのような錯誤を与えかねない論を展開。発言しては県から解釈の誤りを指摘や訂正をされる。その繰り返しに傍聴人があきれかえって失笑や嘲笑すると、玉津教育長「だれが笑ったか会場から出す」と怒鳴る。
 教科書地区協議会を秘密会議としながら、マスコミにスッパ抜かれ、委員は記者会見したり、どの委員が、どの教科書に投票したかまで書かれているのである。秘密を守れなかった責任は誰にあるのか。胸に手を当てて見ればわかるはずだ。
 与那国町の崎原用能教育長、教科書などおそらくまともに読んでいないだろう。与那国は委員が三名だから採決されると負ける。だから採決に加わらない。八月二三日教科書採択協議会でも採決したではないかと自己矛盾を指摘されても「あれはあれ」と正当化。あとは呆れて書くことさえもおぞましい。悪態、品格のなさ。とても教育長とは思えない。
 玉津、崎原両教育長は採決に反対して退席。テレビで放映中の、なでしこジャパンと北朝鮮戦を観戦するなど、一時間責任放棄。県や委員長に促されて玉津教育長は会議に戻ったが、平然とテレビを観ていたといい、仲本委員長から職務怠慢と指摘される。崎原教育長は戻らず、責任放棄。その後も玉津教育長の悪あがきで堂々巡り。呆れてものもいえない。
 これこそテレビは〈公民〉教育として現場中継すべきではなかったか。
 育鵬社が否決され、それに代わる教科書の推薦で、育鵬社を推薦した委員は理由として家族愛、国家、国旗愛をあげ、天皇の写真が多すぎるということは主観の問題、米軍基地は別の教材で教えればいいと述べた。逆立ちした論理である。沖縄(琉球)史や基地問題に触れず、憲法敵視、中国敵視、天皇、儒教観、戦前回帰に彩られた〈視野狭窄〉の〈公民〉を形成するものであろう。
 徳松委員なるもの「ここに来ている人達は教科書を読んでいるか」とうそぶいた。まるで、傍聴者は鵜合の衆と云わんばかりである。彼女はどれだけ読んでいるのだろうか。伺いたいものだ。議事録を情報公開条例で入手してでも読みたいと思っている。
 育鵬社、自由社教科書採択地はどこでも自民党による政治関与が疑われ、問題を起こしている。玉津教育長が九月八日の協議会で得々と述べていた資料が自民党の義家議員からのものだったことが新聞で大きく報じられている。つまり、自民党の政治家が背後にいるのである。「震災や原発事故を通し、国民としてどうあるべきかを考えた。国境の島で、いろいろな事件が起き、生活空間の危機にさらされており、八重山の課題解決のため考えをしっかり受けている教科書を選んだ」(「琉球新報」八月二六日)と育鵬社採決に満足したとある。
 玉津教育長の狙いがどこにあるかは明白であろう。教育が政治の手先になり、国家の尖兵となる。そのような公民教育など考えるだけで恐ろしい。

大田 静男

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