廃村に追い込まれた網取

廃村に追い込まれた網取

 竹富町の島々は復帰前後、本土業者による土地買占めもあり、人口減少による激しい過疎化の荒波が吹き荒れた。西表島西部の網取は、土地買占めこそなかったものの、例外ではなかった。
 網取が廃村になったのは一九七一年(昭和四六)の本土復帰の前年だった。戸数七戸、人口二十九人だったとか。それが「離島苦には耐えられない」として石垣島等の村落ぐるみの移住となった。
 網取集落の創建は、明確ではないが、「八重山島年来記」の一六五一年の項目に網取と舟浮との両村で計六十八人と記されている。また、「宮古八重山両島絵図帳」には、入表間切あミとり村と表れ、高十九石と記す。三間切制以降時は村名が見えず、大浜間切慶田城村統轄されたと推測される。
 一七五五年(乾隆二〇)には崎山村が新設されると、網取村は崎山村の管轄になった。村落はそれ以降、曲がりなりにも小村としての形態を維持しつつ、共同体を保ってきた。人口は多い時で二百人ほどだった。廃村に追い込まれた理由について(1)陸路がないこと(2)無医村の不安(3)交通の不便―を新聞は取り扱っている。
 日常生活への不安により集団移住となったことに炊原区長は「部落の人たちは人情が厚く、助け合いの精神が強い。このために平和で暮らしのいいところだった。廃村になることは残念でならない」と語ったという。 網取集落は当時、稲作と造林収入で生計を立てていた。廃村の数年前の写真をみると、手塩にかけて栽培した稲穂が波を打って豊かに育っていたことが分かる。しかし、数年後、廃屋も出て来て、寂寥感は拭えない。何か物悲しそうな子供たち。兄弟姉妹であろうか。弟をおんぶしている女の子の表情は愛情に満ち溢れている。昭和三三年頃の写真だが、村はこれ以降、次第に寂びれていった。
 網取集落のかつての住民で、うるち会を組織している。一九九七年(平成九)には「網取村跡の碑」を建立した。碑文には以下のようにある。

 網取村は西表島の最南端に三百余年の歩みを残した。耕地や交通の不便と人頭税の重圧に耐えて村人は父祖の築いた繁栄を守ってきた。しかし、政治の貧困による経済の行き詰まり医療、教育の不備を始めとする孤島苦が募り、ついに昭和四十六年七月十四日に全員離島を余儀なくされた。ここに私たちは全体の祖先の霊を祀り、四散した村人のよりどころとするためこの碑を建てる。
 平成九年八月吉日 うるち会建立

 集落の変遷を把握する網取遺跡の発掘調査が昨年、廃村後三十六年目にして行われた。調査から中世期の遺跡らしいことが分かった。

竹富町役場 通事 孝作

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