領土問題

 猛暑である。動くだけで汗びっしょり。クタクタでなにもかもが、どうでもいいやという気分である。思考力など停滞、いな劣化というべきか。そんな暑い夏の日、また尖閣を巡って騒々しい。石垣市長が尖閣で慰霊祭をしたいから上陸許可を島の所有者に話をすると云ったり、尖閣はワッタームンと叫ぶひとたちの集会。冷そうめんでも食べて頭を冷やした方が良いのではないかと思う。
 日本国家にとって尖閣は当初どうでもよかったはずだ。いや、沖縄、八重山なんてほんとにどうでもよかったのである。
 琉球処分の翌年八重山・宮古を清国へ割譲すべしというから民族統一なんて嘘っぱちであった。石炭が埋蔵されているから西表島が注目され、「八重山は土地広漠、人口少なく所有定まらざる土地多し」(尾崎良三沖縄県復命書)という状態を利用して、広大な面積の土地が次々とヤマトンチューに払い下げられた。政治家と政商が結託し、島を喰い荒らしたといってよい。
 一八八六年、山縣有朋内務大臣と三井物産社長益田孝が西表を訪れた。山縣は復命書のなかで、国防の見地から軍備を整え、国家意識を高めるため教育を盛んにし、旧慣や租税は据え置き、砂糖、畜産、石炭の振興を図る事を強調している。八重山に集治監を設け、西表石炭開発には囚人を採炭に使役するよう建言している。三井物産会社による西表炭鉱開発が囚人を使役したのは当然、伊藤との関係があったからである。三井物産会社は西表島六十万坪を借地している。さらに、石垣島では中川虎之助らによる名蔵における製糖工場建設のための二千五百町歩(24.8平方キロメートル)の開墾を申請。そして、一千五百町歩(14.9平方キロメートル)の借地が許可された。この借地請願人となったのが、内務次官松岡康毅であり、久保吉之進は沖縄県知事の甥、藤本文策は貴族院議長蜂須賀公爵の家令であった。衆議院議員木内信代議士が疑獄事件として追及したが結局はウヤムヤとなった。桃里、盛山でも大規模な借地願が出されているし、奈良原繁沖縄知事のように、借地願いを自ら出して自ら許可している文書も那覇市史編集室に残されている。土地整理事業が始まる前から、島人の無知をいいことに、政治家、政商が結託し島をほしいままにしたのは明白である。清国へ割譲しようとした島から石炭が出たり、軍港としての価値がわかると一転して福沢諭吉のように「八重山の港に軍艦を繋ぎ、陸上に兵隊を駐屯させ八重山より宮古、沖縄、鹿児島に電線を通じ、軍艦は近海を巡回」させる。西表から石炭が出るとわかると「八重山は殖産上からも軍略の上より論ずるも我が宝もの」だと論じている。政府の富国強兵を論じているだけである。西表の石炭を尖閣列島の石油資源(海洋資源)を置きなおしたら現代でも通じるものである。
 さて、尖閣を日本政府は琉球の版図と考えていたであろうか。一八八五年、西村沖縄県令の命を受け石澤兵吾等が久場島等を調査した。西村はその報告書をもって、内務大臣山縣有朋に、無人島に国標を建てるのは清国と「萬一不都合を生じては相済まず」そのため指示を仰ぎたいと文書を提出した。山縣はそれを受け「国標建設の儀、清国に交渉し彼是都合もこれあり候につき目下見合わせ彼方可然と相考え候」と三条太政大臣に文を提出した。つまり、このころまで、日本政府は尖閣諸島を領土とするのをためらっていたのである。一八九四年日清戦争が始まり、それに勝利すると、待ってましたとばかりに一八九五年、国標を建てることを認めるのである。無知で無恥な政治屋たちが、日本固有の領土などと腕を振り上げているのを見ると、こちらがハジカサンなって、もうちょっと下向いてぼそっと言って欲しいなと思う。
 固有の領土を売ったり、都合が悪くなると戻したり、ワッタームンであるなら躊躇する必要もないのに他所の国との軋轢を考えたりするのは、日本政府や日本人が化外の民と考えているからである。辺野古移設に県民が反対しているのにそれを押しつけ、海洋資源を護るために軍隊を置くなどという日本政府の国益中心主義などに付き合う暇はないのである。遺族の心理を巧みに利用して尖閣上陸を目論む市長の思惑などスケスケである。地方が国家の思惑を先取りし補完したら目も当てられない。オシマイ。

大田 静男

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