稲刈り光景の佐久田

稲刈り光景の佐久田

 西表島は、稲作が盛んな米どころで知られる。古謡では「米ヌ島」として歌われ、米どころであることがわかる。歴史的には東部より西部のほうが盛んなようだ。その証拠に八重山に関する記述で、もっとも古い古文書で知られる一四七七年(成化十三)に書かれた「李朝実録」成宗十年の条に西表島の祖納等を見聞した「済州島民漂流記」がある。これには西表島で米、粟が作られ、材木を波照間、新城、黒島に移出している。この記録は西部に関わる記述だが、東部も同様だったと思われる。敷衍して考えると、古見地方で稲作が行われていてもおかしくない。
 西表東部は終戦後、創建された大原、大富、豊原、由布、それに古い集落の古見からなる。現在はサトウキビ栽培、畜産等に従事する農家がほとんどだが、昭和三十年代には稲作農家が今より多く、これら農家の栽培した米が水田に黄金穂を実らせて、田んぼにいっぱいに波打っていた。稲作が、今と同様に水が豊富な西表島のほか小浜島、天水田の波照間島では田んぼに脱穀機が置かれ、地区内には精米所がうなり声を上げ、農家は米づくりに忙しかった。
 写真は佐久田地区での昭和三十年代における稲刈り光景。現在、同地区は県営の土地改良事業が進み、今は耕地が全てサトウキビ畑に様変わりしている。現在は西表糖業が建設され、キビ一辺倒に変貌している。しかし、昭和三十年代には水田が広がり、今とは様相を異にしていた。
 稲作は、水田づくりから始まり、苗作り、田植え、除草、収穫、と年間を通じて繁忙だ。特に稲刈りの時期は忙しく、猫の手も借りたいほどだ。しかし、今では機械化が進み、ほとんど農機具に頼っているのが現状で、かつては人手を多く必要とする人海戦術が主流だった。写真をみるとよく分かる。
 水田いっぱいに黄金の穂を垂れた稲を、鎌で刈り取る農家の人たち。刈り取る手に力が入る。刈り取った稲穂は、丁寧に一握りごとに同一方向に並べられて後方に置く。そして刈り取り人は前進む。一九五四年(昭和二十九)頃に撮られた写真だが、この年は豊作だったのだろうか。
 八重山の歴史、民俗の中で米に関する古謡といえば「稲が種アヨウ」が想起される。稲の生長する様子を謡い、稲穂が石のように硬く、金のような実をつけ、世果報をもたらしてほしい、との願いが込められている。佐久田地区は耕地整備によりサトウキビ一本だが、古くは稲作が行われていた。

竹富町役場 通事 孝作

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