「古見の浦節」讃歌

「古見の浦節」讃歌

 西表島東部に古見集落がある。王府時代には古見村として、西部の祖納村とともに西表島を代表する村であった。   
 古文書の中には西表島を「古見島」とする記録もあることから、古くは政治、経済、文化の中心地だったことが分かる。また、古見間切として東部の村々を抱えていたこともあったが、八重山三間切制への移行時(一六二八年)には石垣間切に組み入れられ、後に宮良間切の一村落になった。十七世紀後期にはスラ所(造船所)も設けられ、人口は多い時には八百人を超えた。
 古見集落は、今日まで由緒ある村落として歴史を刻んでいる。仮面仮装神のアカマタ・クロマタ・シロマタが登場する豊年祭は、秘祭的な様相を呈し、写真撮影などは厳禁である。ニライカナイ信仰が基底にあるといわれる祭だが、古文書には世持神として記録される。「結願祭」もあり、祭には村を離れた郷友たちが帰村し、村びとと一緒になって村の繁栄、無病息災などを祈る。古謡、民謡も豊かな村で、なかでも「古見の浦節」は、八重山民謡を代表する抒情性に満ちた情感のある節歌のひとつとして知られる。
 この節歌は、山陽姓四世の大宜見長稔(一六八二年~一七一五年)が与那国島への公用の途中遭難し、古見の浦に漂着、風雨が収まるまで停泊した古見村での自己体験をベースに作詞作曲されている。内容は三つの展開をなす。前奏に続き「古見の浦ぬ八重岳/八重かさび美与底…」などと、まず古見の浦の景観の素晴らしさが歌われ、続いて香しい乙女達と上品な役人、そして乙女と共に過ごした思い出を語り合おう、とする歌詞で、歌意は恋歌のようである。
 八重山民謡を数多く聴き、舞踊も多数見ているが「古見の浦節」だけは、何度聴いたり、見たりしても、涙腺が緩み、思わず涙が出てしまう。前奏の三味線の音が流れると何かもの悲しくなる。荘重な音曲が続き、最後に踊り手が囃子言葉を唱えながら退場する場面になると、何とも切なく、涙が零れ落ちる。八重山の代表的な抒情歌「とぅばらーま」も素晴らしいが、「古見の浦節」は私にとって「とぅばらーま」以上の節歌である。
 写真は沖縄の民俗芸能に造詣が深い芸能研究家・本田安次氏が一九五八年(昭和三三)に古見集落を訪れたときに撮影した。場所は大底功宅の家であろうか。写真は舞踊発表会などではなく、にわか舞台を仕立て、踊り手に衣装を着けさせて撮っている。本田氏は同年、八重山の島々を訪れて調査研究をしている。それは民俗芸能に限らず、宗教、信仰などにも及ぶ。研究成果は『南島採訪記』にまとめられている。

竹富町役場 通事 孝作

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