友利御嶽に集まった神司たち

友利御嶽に集まった神司たち

 八重山の各村には、必ずひとつ以上の御嶽がある。御嶽には村を愛護する神、祝福を招来する神、航海安全に関わる神、などが祀られている聖地である。神行事においては祭祀の中心となる場でもある。八重山の御嶽を記した『琉球国由来記』巻二十一には七十六ヵ所の御嶽が載っている。
 竹富町の島々には数多くの御嶽が建立されている。鳩間島には友利、新川、ピナイ、西堂、前泊の五御嶽が形づくられている。『琉球国由来記』には友利とピナイの二御嶽が掲載されている。五御嶽の中心で最初に創建されたのが友利御嶽。最も古く由緒ある御嶽と言いわれている。島では「トゥモリウガン」と呼ばれ、「ムトゥウガン」の別称もある。古謡では鳩間島の対語として謡われる。これから最高の神格を持つ御嶽であることが分かる。
 行政と村落を十七、十八世紀の古文書から見ると、『宮古八重山両島絵図』(一六四八年)には古見間切・鳩間島とあり九八石の生産石高。『参遣状』によると、鳩間村と行政的に一体として扱われていた鬚川村が衰微したため役人の与人・目差が廃止され、古見村役人の扱いとなった。人口については『八重山島年来記』をみると、一七〇三年(康煕四二)に黒島・保里村から寄百姓があり、一五〇人の移住があった。そこで同年に独立村にすることを陳情して、それが認められ役人が常駐した。同記に「鳩間島之儀古見村役人扱ニ而候処黒島保里ニケ村ヨリ百五十人寄百姓ニ而地頭持被成候也」と明記されている。
 村落及び御嶽の創設については「ムトゥジラバ」に謡われている。島では御嶽を創設したのは鳩間儀佐真主といわれ、別名・船屋儀佐真主と呼ばれ宮古島の人と言われる。年代は一五〇九年頃のようだ。「ムトゥジラバ」では「この友利御嶽を建てたのはヤマレ翁を指導者として…」と謡われている。ここでヤマレ翁と船屋儀佐真主は同一人物なのか、あるいは別人なのか、ということである。
 鳩間島には豊年祭、結願祭など多彩な年中祭祀がある。祭りになると、島を離れた郷友らが帰省し、賑わいをみせる。近年は海上交通が良くなったこともあり、人口が増している。祭りになると、神司は白装束をまとい、ティジリビは決まった衣装を着けて、敬虔な気持ちで祷りを捧げる。友利御嶽は集落の後方にあり、自然石の根石を階段状に削り、拝殿、イビで形成される。御嶽内はこんもりとした森となり、石階段にはコケが生え、湿気を含んでいる。
 御嶽の祭祀とともにある八重山の神世界。神司は供物を捧げ、香炉に線香を焚き、村の繁栄、住民の幸福をひたすら祈る。

竹富町役場 通事 孝作

この記事をシェアする