奥山の牡丹

 鹿児島鹿屋市にあるハンセン病施設、星塚敬愛園近くの知人宅で昼食をいただきながら話がひょんなことから琉球歌劇「奥山の牡丹」に話が及んだ。彼女らによると母はハンセン病を親に持つ者で、それを苦に夫や息子の前から姿を消し、最後は自殺したと食事に誘った女性が自信たっぷりに話す。僕はそれは…と云いながら言葉をのみ込んだ。
 大正初期に伊良波尹吉によって作られた「奥山の牡丹」は「泊阿嘉」「辺土名(伊江島)ハンドゥ小」と沖縄三大歌劇の一つと云われる。奥山の牡丹がハ病を題材としていると思われているのは、劇中に、勢頭と呼ばれる非人の頭の娘チラーが奥間殿内の息子、奥間三郎の子供を生み、その祝いの座に三郎がやってくる。チラーはその時初めて非人の娘であるとその素性を明かす。

 わんねえ~ようたり思里前/ あわり物乞勢頭ぬ子に生りと やびる/身分知らん恋の遊び やゆるちたぼり
〈私はですね、思里主様、哀れな物乞い勢頭の子です。身分も顧みず、恋の遊びをしたことをお許し下さい〉。
 このセリフに出て来る物乞勢頭というのがハ病者と間違えられているようである。しかし、それは無理もないことである。ハ病の呼称のひとつにナンブチというのがある。それについて「ナンブチはニンブチャー(念仏者)の転訛でニンブチャーとは一九三〇年頃まで首里に残っていた賎民のことである。彼等は葬儀の鐘打ちを業としていたが、その親分はクンチャーシード(物乞勢頭)と呼ばれ、乞食を支配してその貰いものを幾分か徴収していた。このニンブチャーと混同されて癩患者の乞食もそう呼ばれるようになり、後にこの語はナンブチと転訛した」(『沖縄救癩史』)といわれる。
 物乞勢頭とは首里久場川村と汀志良次村境にあった「あんにゃ村」に住む門付芸人や死者儀礼の総元締めのことである。あんにゃ村は古地図などには「行脚屋敷」と記されている。行脚屋敷が勢頭屋敷であろう。現在の首里リュウボウの向かい辺りである。彼等はニンブチャー(念仏者)やチョンダラー(京太郎)、フトゥキマーサー(仏廻し)と呼ばれ、蔑視と偏見の目で見られ、他の身分との婚姻は許されなかったという。
 ところで、明治四十二年沖縄県によってこの地に癩療養所が設置される計画が浮上した。「首里地区汀志良次に設置すべく同地の調査を為したるは同地が昔より乞食勢頭の住所なるを以此の乞食勢頭をして癩病患者の監督を為しむるは便利ならんといふ意味より単に候補地として選定したる譯けにて(以下略)」(「沖縄毎日新聞」明治四十二年六月二日号)とある。
 沖縄県には差別と偏見で見られている地に〈療養所〉を設置しハ病患者を隔離し、勢頭に監視させる、差別や蔑視されている者同士だけに反対運動など起こるはずがないという思惑が見える。差別の助長であり、療養など二の次と思える。
 しかし、首里地区の反対運動で計画は変更を余儀なくされた。その後、天久崎樋川へ計画変更となり、そこでも猛烈な反対運動に会い、沖縄本島でのハ病施設の建設はとん挫し、一九三八年の国頭愛楽園設置までまたなければならなかった。
「奥山の牡丹」は、一九一四年に上演されて女性観客の涙をしぼったといわれるが、それが、差別や偏見、侮蔑の根源を問う涙ではなかったのは当然である。
 奥山の牡丹はハ病者を対象とした歌劇ではないが、八重山でハ病者が登場する小説が書かれたのは、昭和三年、『先島朝日新聞』に連載された伊波南哲の小説「海の誘惑」であろう。しかし、伊波のハ病観はも社会構造を捨象し、芸術至上主義?観念論に終始している。
 時代の制約とは云え伊良波や伊波が社会構造に目を向け、掘り下げて行けば歌劇やハ病文学作品として先駆的役割を果たしたとおもわれ惜まれる。
 五月にはハンセン病市民学会が名護市や宮古島市を中心に開催される。八重山はオプショナルツアーとして光田健輔が隔離を構想した西表島、ハ病救済に奔走した大川の徳田祐弼宅などを見学し、交流会も予定している。ハ病に理解のない島と呼ばれる八重山での開催を機会にハ病について知ってもらいたいものである。

大田 静男

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