「アントゥリ」という村があった その三

「アントゥリ」という村があった その三

村の学校

 桟橋を過ぎ、「あんとぅり」の石碑を右に見つつ村域に入る。辿る道の名は「ガッコーヌウダチ」。やがて道の左手に二つの石注が立っているのが見えてくる。注の高さは1m程だろうか。「網取小中学校」の門跡である。
 初めて学校が出来たのは明治三一年、校名は大川尋常小学校崎山分校という。八年後には、西表尋常小学校崎山分教場となる。その八年後に一時廃校となるが、陳情により大正六年に崎山仮教場として設立されることになる。
 昭和二四年、学制の変更により西表小中学校網取分校となる。昭和二七年には中学校が併設され、校舎も新築された。三二年には独立して、網取小中学校となった。網取の名を持つ学校が出来たのだ。しかし昭和四五年、入学児童がいなくなったことで、学校は廃校となる。廃村になったのはその翌年であった。
 石柱の側面には長方形のくぼみが見える。学校名を記したプレートがはめ込まれていたのだろう。今はただ、そこにくぼみがあるばかりである。
 往時を偲ばせる僅かな写真は、ここに瓦葺きの校舎があったことを物語る。大正十三年に校舎を瓦葺きに新築したという記録が残っている。瓦は村内で焼いたものを使ったという。1960年代にはより近代的に改築され、その時の建物は現在も研究棟として活用されている。
 学校の裏手まで、現在では野原が続いている。かつては短冊状の水田が広がっていたようだ。
※参考文献
山田武男『わが故郷アントゥリ』1986年 おきなわ文庫
東海大学『網取遺跡・カトゥラ貝塚の研究』2007年

石井 龍太

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