「アントゥリ」という村があった その二

「アントゥリ」という村があった その二
「アントゥリ」という村があった その二
「アントゥリ」という村があった その二

モノが語る八重山

桟橋から村域に入る。その前面には石碑が建てられ、「あんとぅり」の字が彫られている。石碑は身の丈ほどもあり、大きく、誇らしい。石碑の台座には「うるち会」の名がある。村出身者によって作られたこの会の名は、村の背後にそびえるウルチ岳にちなんでつけられている。
「アントゥリ」、現在の表記では「網取」とされ、「あみとり」と読まれる。その名は、浜に干した網を取り集める時の掛け声に由来するという※。
 村に関する最も古い記録は、今から三六〇年程前にさかのぼる。将軍・徳川家光は、日本各地から幕府に地図を献上するよう命を下した。この時に作成された『宮古八重山両島絵図帳』(正保四年 一六五一年)には、「あミとり村」の名が見える。『参遣状』、『八重山島年来記』には「網取村」、『慶来慶田城由来記』には「あめ取村」と書かれている。また『琉球国由来記』には、「アミ取御嶽」が記載されている。
豊かな村だったようだ。『八重山島年来記』順治九年(一六五一年)の条には、船浮と合わせて人口三八人とされているが、『参遣状』乾隆二年(一七三七年)の条には四九人が住み、「住居安所」つまり住みやすいところだとされている。乾隆二十年(一七五五年)には、網取村から崎山村へ六二人を移住させたとある。当然それ以上の人口がいたことであろう。(続く)
※参考文献 山田武男『わが故郷アントゥリ』1986年 おきなわ文庫

石井龍太

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