夕暮れが訪れるとねじりはち巻きをした父がかがり火を起こせとぼくに告げた。声の響きから父が憔悴しているのが判った。
裏庭のいつも小牛をつなぎ止めている場所にその日は雌の牛が陣取っていた。昼すぎからその牛の陣痛が始まり父がずっと看護しているとのことだった。
農作業を終えた近隣の人たちも次々と顔をだす。ぼくは明りが消えないように薪をくべながら大人たちの会話に耳を傾けていたが、言葉は少なく時折苦しそうにもがく雌牛を見守るだけだった。
かろうじて四肢を踏んばっていた雌牛がへたるように座り込んだ。尾の下からは羊水が鼻水のように流れてはいたが、仔牛の姿は見えなかった。
もう無理だろう、腹を開けて取り出せば、仔牛だけは助かるかもしれない。隣の爺が沈痛な声で父に耳うちした。父は返事をせず黙って雌牛を凝視していた。放っておけば親牛が死を迎えるであろうことは小学生のぼくにも理解できた。
父の顔もその場で立ちつくしている大人たちの顔もかがり火を受けて赤く染まっていた。
父がぼくに家へ戻れと囁いた。その顔には少し悔しさが滲んでいる。ぼくは言いつけ通り家に戻ったが裏庭から届いてくる声を必死に判読しようとしていた。
長い時間が過ぎ、裏庭からぼくを呼ぶ声がした。すぐさま走って訪れてみると雌牛の姿はゴザの上に積まれた肉片に変わっていた。かがり火は小さくなっていたが、隅の方に毛が濡れたままの仔牛がいた。ぼくは夢中でその仔牛を飼いたいと訴えた。
親がいないと育たない、と父ははねつけたが、ぼくの心中を察した母が助け舟をだし、願いが叶った。
その夜は物置きにワラを敷きつめ仔牛と寝た。その後、母の手助けがありその仔牛は立派な牛に育ったが、ぼくは今でも仔牛と一緒に寝た夜の至福を鮮明に思い出すことができる。