波照間漁船遭難記           

「絶海の孤島」といわれた今から四十八年前の波照間島で、クリ舟がエンジン故障して起こして三日間も漂流するという遭難事故があった。事故は当時、島を揺るがす大きな出来事で、親族や親戚及び関係者は眠れない日々が続いたという。結局、四人の乗組員は一人のケガ人もなくタンカーに救助され、九死に一生を得て無事に帰還した。
 今では島びとの記憶も薄れ、遠い昔ばなしになり、忘れられつつある。しかし、当事者の妻のなかには、過去のことながら、今でも鮮明に覚えていて「このような事故を二度と起こさないためにも記録に残して欲しい」と訴えた。当時の新聞は、四人が無事帰って来た直後にルポルタージュ記事にしている。
 遭難事故は一九六二年(昭和三七)一月二十九日午前十時頃に発生した。漁船のひとし丸には山田均さん(当時四五)、山田正利さん(同三八)、金武久吉さん(同三四)、前石野正啓さん(同三〇)が乗り込み出漁した。山田さん二人は兄弟、金武さんと前石野さんは従兄弟同士の関係。四人とも漁業もやるが、農業にも精を出すという“半農半漁民”。この日は日帰りの予定で出漁した。魚を釣り上げたところで強風を受け、白波が立ってきたので帰ろうとエンジンを動かした。しかし、故障。四人は修理を急いだが、波のうねりが高くて修理に集中できず、日も暮れて西表島が遠くにかすんで見えた。
 修理を断念した四人は、エンジンを海中に投げ捨て、腐れかかった魚も三匹残して海に捨てた。三十一日になって、「西へ進路をとれば台湾に近いし、貨物船の航行も多い。船を西方に進めよう」とする金武さんの意見に全員が賛成した。
 エンジンのシャフトをマストに、シーアンカーの板を帆にして風に乗って西方へと向かった。午後五時ごろになって奇跡が起きた。なんと、水平線を見ていると、黒い船が近づいてくるではないか。四人は夢中で櫂を振り自己アピールした。すると、通りかかった旭栄丸の航海士が四人を発見し救助した。この時、金武さんは思ったという。「この世に神はいるものだ」と。一種の神通力だろうか。
 一方、島では乗組員四人の家族は神にすがる思いで「今日は帰っていないだろうか」と連日、港に足を運び続けたという。諦めない心の家族の願いは通じた。
 救助された金武さんらは、二月三日、松山港に入港。その晩、大阪の親戚の家に身を寄せ、十八日に帰郷した。遭難してから二十日だった。現在、三人は亡くなり、金武さんだけ存命である。

通事 孝作

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