熊本で

ひさしぶりに熊本の町を散策した。いつも訪ねていたのが秋で、阿蘇の紅葉や枯れた草千里を見ていたが、春は初めてである。
 市内を流れる白川の土手や熊本城は桜が満開で、夜桜を楽しむ人たちでにぎわっていた。
 肥後椿がホテルの庭に誇らしげに咲いているのを見て感動した。直径20センチもあろうか、ボリュウムのある大きな花弁である。以前、肥後キクを見たが刷毛のような花弁で好みではなかった。しかし、品種改良した肥後椿はどうどうとして立派なものである。
 街路や人家にも多くの品種が咲き目を楽しませてくれる。
 椿といえば宮良殿内に花弁が開かず蕾のままに終わる不思議な椿がある。
 蕾を開いて調べてみると白にピンクの絞りの美しい椿であった。二センチほどの小さな花弁が四十数枚ある。雄しべは未発達で雌しべだけである。姫詫助の一種かもしれない。
 日本椿協会の桐野秋豊氏に蕾を送り問い合わせると、『「咲かずの椿」は全国で数株発見されている。このような椿の共通点は(1)花蕾を構成する花弁、苞などが退化し(突然変異による)(2)若い蕾の中の花弁などが成長する機能を失ったものです。(3)普通は花弁の成長にともなって蕾が開いていくのですが、その能力を失ったために、いつまでたっても花弁が伸びないため蕾のまま落下する。伊豆大島の例では、おしべもすべて花弁に変化した千重咲きタイプ(宮良殿内のものと同じタイプ)中央部分にめしべの退化したごく小さな変形物がありました。こうした「咲かずのツバキ」は開花による栄養の消費が少ないために、樹性が強く、毎年多くの蕾をつけ木もよく成長するようでした。』との鄭重な返事をいただいた。
 宮良殿内には「花木養生書」(琉大宮良殿内文庫蔵)があり、そのなかに椿の植え方や施肥について詳しく記されている。
 宮良殿内には詫助など早咲き遅咲きの三、四種の椿があるが、幹の太さや花木養生書から推測すると明治中ごろに植栽されたのではないか。
 現在の宮良殿内庭園はそのころ整えられたと思われる。
 しかし、最初から咲かずの椿を好んで植えたとは思えない。王府時代首里の城下町には薩摩経由の多くの椿があったといわれるが、廃藩置県や戦争で多くを失ったといわれる。八重山の士族の屋敷には椿が植えられていた。品種も十ぐらいあるのではないか。宮良殿内の咲かずの椿の突然変異はいつ起きたか植栽前か後か興味は尽きない。
 さて、僕の旅先での楽しみは植物を見ることと、図書館、古本屋めぐりである。
 熊本図書館や夏目漱石や高群逸枝、谷川雁等熊本ゆかりの文学者を展示してある熊本近代文学館を見て歩く。
 古本屋を覗くと知人が不思議なものがあるよといいながら手渡された。
「東京ユンタ」(ユンタブーギー)とかかれた新興音楽出版社が昭和二十三年に出したピース(楽譜)版である。安里屋ユンタである。
 松村又一作詞、和田健作曲並編曲で、キングレコード吹き込みとあるからレコード化されたのであろう。

一 君と僕とはトレーラバスよ  サ ヨイヨイ
  いつも仲好くヤレホニ
  二人づれ
  マタハリのツンララ
  カヌサマヨ
二 ひろい東京も戀故せまい
  今日も焼けあとヤレホニ忍  び合い
三 あの娘銀座の花賣り娘
  花を賣眼でヤレホニしなを  賣る
四 あの娘二號か
  アパート住ひ
  今日も化粧してヤレホニど  こへやら
 
 銀座の花売り娘やら、カンカン娘など流行歌詞をごっちゃにした、なんとまあつまらない歌詞であろうか。それにしても、戦時中は「シンダラ(死んだら)神様よ」と兵隊の心を支え戦後は東京ユンタとなり、焼跡のなかで人々の心を慰め日本復興の一助?となったと考えればこの歌のもつ不思議なパワーを思わずにはいられない。
 桜吹雪を浴び心浮き浮きしながら安里屋ユンタを口ずさんでいた。

大田 静男

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