久部良集落に金刀比羅宮が建立されたのは、一九三六(昭和十一)年のことである。
金刀比羅はもともと仏教の守護神。日本で大物主神と習合し、雨を降らせ、航海する人の願いをかなえるとされる。
これで久部良には、海神祭(旧五月四日)、「たてぃうがん(立願)、旧二月」、「ふとぅきうがん(解き願)、旧十二月」に、金刀比羅祭(旧十月十日)が加わることになったのである。
祭の前夜、まつりをつかさどる神官役は祠の前で夜籠りをする。翌日、つまり、祭の日の午前五時前、一本のたいまつをかかげ、太鼓をたたきながら、大漁旗のはためく参道をのぼってくる町漁協の役員たちを迎えるためだ。夜が明けると、招神の儀で祭がはじまり、祝詞奏上となるのだが、祝詞は、神前で祭の趣旨などを読み上げる、古代日本語の文章である。これまでの神官役で神主の資格を持っていたのは終戦直後、台湾から本土へ引き揚げの途次、久部良に滞在して教師をしていた曽根玄導ただ一人である。彼以外は、学校の先生や船主会長、漁協長らが先代から儀式の進め方とともに祝詞を教わり、与那国では異質なこの神の神官役を果たしてきたのである。
写真を提供してくださった入波平節さん(八八)の話によると、夫・信英も、与那国を去ることになった山本家の人に祝詞をならい、校長をつとめながら金刀比羅の神に仕えた。
昭和五三(一九七八)年、当時の漁業組合長で神官役・仲嵩博は香川県琴平の金刀比羅宮に参詣し、一時期、失われていたご神体を再び勧請して、久部良の神宮の神棚に安置した。またその際、祝詞の奏上についても、直接、宮司の指導を受けた、という。彼の母は香川県の人である。
ところで、金刀比羅宮は航海安全だけを期待されたわけではない。出征前、武運長久を願う者もあったし、紀元節や学校の記念日の祝賀行列の終着点でもあった。金刀比羅が勧請されてこのかた、七四年–。昭和の初期、海難事故が続出したのがきっかけで、尊崇の念のあつい四国出身者が勧請の中心だったが、いつしか島人とのなじみも深まり、久部良の金刀比羅さんと親しまれている。