あぁ、ふるさと下地島

あぁ、ふるさと下地島

下地の言葉と上地の言葉は違うんですよ。だから最初に島を建てた人は下地と上地と違うんじゃないか、と私は思います。下地の言葉について、どうも宮古なまりが多いような感じがする。私の知り合いに白保に住んでいる多良間出身の人がおるんだが、その人の言葉を聞くと、下地の言葉と似ておる。どうも、下地の祖先は多良間から来たんじゃないかとも思うわけです。宮古の人と話しているとそう思うんですね。
 例えば、不思議に思う時に「あらあらあら」というでしょ。そのとき多良間の人は「あもあもあも」と言うんですよ。私の島でも、急に異変が起きたときに「あもあもあも」と言うんですよ。沖縄の「あぎじゃびよー」ですよね。こういうところが非常に似てるんです。まだ、いろいろあるんです。元祖は宮古の多良間か、と。
 上地との違いは、下地の「か」を上地では「は」と発音する。赤い色は下地では「かかの色(いる)」上地では「ははの色(いる)」という。面白いですね。
 ところで、村役は、昔はユムチ(世持)と言ったらしいが、私たちの時代はムラスーダイ(村総代)とが言った。それから部落会長、公民館長となった。
 なにか皆で相談をしなければならないときは、これが面白いんですよ、上地もおんなじですが、道に集まったわけです。綱引の時に綱引く道がありましてね、オーセー(村番所。のちにそこに学校ができた)の後ろの十字路。そこが集合場所でもありましたよ。当時はほとんどが茅葺きの家。瓦家は2、3軒ありましたかな。家の周りは石垣が1メートル50~60センチくらい積まれて、マーカス(ヒンプン)もありましたよ。
「アサバンズルイ(朝晩揃い)するところ」といったです。朝は6時7時ごろ、十字路に座ってですよ(石に座ったりして)、総代が、「何のために集めました、これを論議してくれれ」と始めるわけですよ。1時間くらい。ここであんまり長くいると今日の野良仕事に差し支えますからね。「はい、また明日の朝も集まれ」というふうに決めてから解散しよったです。夕方やるというのはあんまりなかったですな。
 青年以上は全員集まれ、だからね。ここでいろんなことを決めて上地の村総代と話し合いですよ。たいがい上地で打ち合わせしたですな。バダリャ(渡し舟)をつかって。

●子どもの日課だった水汲み

 当時の服装? たいがい男は着物に裸足、下着は越中ふんどしでしたな。女の下着は袴(この袴は今はないですな)。この袴はよ、白い布でつくった。また、パーマというパンツ式のものを穿いている者もいた。これは中国の女が穿いているのとそっくりだった。
 子どもも着物に裸足ですよ。小学校3、4年までは下着なし。5、6年になると女の子は腰巻、男の子は越中ふんどし。一人前になるとふんどし穿くようになるわけです。
 あの当時の子どもたちの日課のひとつは水汲みですよ。井戸は私らの小さい頃は7つくらいあって、2つは塩水、あとの5つは甘水だったですよ。そんなに甘いわけではないけど生でも飲める。下地は水には不自由しなかったですよ。
 上地は甘水が出ないですから、水に不自由したと思うんです。ちょっと干ばつすると上地の人は下地にが水汲みに来ておったです。石油缶カンをクリ舟に並べておいて、ナースクに舟つけて、下地の井戸から。
 私らは井戸から水を汲んできて4斗甕に貯めて使いよったです。朝起きたらみんな水汲みにが行くのに。1斗缶2缶をもって2回行けば、甕をいっぱい満たしておけば1日心配ないです。
 雨どいからタンクに水を貯めてというのもありましたが、あれ(天水)は井戸水よりも甘いですが、色が染まってですよ、私はあんまりいい気持ちしなかったですな。これにボウフラが湧くんですよ。
 風呂は井戸水汲んできて、シンメー鍋にお湯沸かしてやりましたな。夏なんかは浜に行って浴びて、家に来て井戸水で濯ぐわけです。
昔のナースコ村跡にも井戸らしいものがあったですが、埋まってですね、水らしいものはなかったです。ウリカー(下り井戸)の跡らしいものです。もうひとつ。ナーメーというところにも同じようなウリカーがあったですね。

●亀、ムホン、中毒

 海に行くのは潮時をみて、多くは大潮のとき。よくウラ(イールワンの近くの海)に行った。島の南(パイモテ)にはタコがいっぱい。ギーラもいっぱい。ヤズ道を行ってね、女連中はここに行きよったです。釣りとか、潜りもやった。私はこっちのほう。
 貝類は水から炊くんですよ。沸騰した鍋に入れたら、ギュッと固まって口があかない。だから、鍋の水に最初から貝を入れて炊くわけ。そしたら、だんだんアチチと言って、殻から出ようとして、口を開けたままになるわけさ。
 亀は、卵を産みにあがってくるのを捕っておった。卵を食べるのが多かったようですよ。下地には亀を食べて中毒したというのはなかったですな。
 私たちの先輩がフグを食べて2人死んだらしいですよ。イザリに行ってフグをとってきて、ハラミも一緒に炊いて食べたら、このハラミを食べた2人が死んだ、と。若い22、23歳くらいの青年だったらしいが。
 ムホン(ヤシガニ)、これは粟の収穫期に、粟畑などに出てきて、粟の穂を噛んでその汁を飲むんですよ。収穫期の粟畑には確実にいるから確実に捕まえてくる。
 若い連中はカシガ袋に入れて縛ってですよ、シンメー鍋に盛り上げて炊いて食べてが面白がっておった。あのくらいおったですよ。
 島のものは中毒しないとがなっている。西表の南風見田など、ああいう山のところからとったヤシガニが中毒するといわれていた。
 私、昭和27、28年ごろ豊原に移住しましたが、そこから西に南風見田はありますからね、宮古出身のSという者が南風見田から大きなヤシガニを捕ってきてですよ、これを食べてが中毒して40度くらい熱出して、髪の毛も抜けたですよ。
 ムホンの中毒は、炊いて大きいツメ関節のところが黒くしているのは中毒する。炊くとみんな赤くなりますがね、炊いても関節が青いまま変わらないのは中毒するんですよ。Sが中毒したのはあんなにしていたんですよ。私は見たんですから。そしてですね、ナンですか、また甲羅のトロ(ミソ)がまっ黒になるんです。それが舌に刺激を与えるらしいので、それを舐めてみるとわかるらしいです。島のものを食べて中毒した者はなかったです。
島にはハスノハギリもガーナ木もありますが、しかし中毒した者はいませんでしたな

南野アキラ

この記事をシェアする