沖縄の基幹作物であるサトウキビが島の経済を支えている波照間島だが、昭和三十年代の初期まで穀物類が栽培され、他の雑穀とともに島の経済を潤していた。当然、サトウキビも栽培されていた。しかし、今日ほど植え付け面積は広くなく、運搬方法も大型トラックを使用するほど収穫量は多くはなく、美里製糖工場、南部落製糖工場など各部落にある計五ヵ所の小型製糖工場で黒糖化にされた。
工場の周囲にはサトウキビを搾った残り滓のバカスが山積みされていた。黒糖は様々なルートを経て、樽詰めされた後、出荷された。それに四十余年前までは粟・麦・サツマイモの栽培が生業の一環を形成し、それらは食生活の必需作物だった。それに、原野では肉牛を飼育するほか、家庭では豚・鶏を養って出荷していた。
波照間島は琉球石灰岩に覆われた山・川のない、年中において水に苦しむ典型的な、「ヌングン島(野の島)」である。このような島で陸稲ではなく水稲の栽培が行われた、といえば奇異に思われるだろか。水稲は山・川があり水資源が豊富な「タングン島(田の島)」で栽培されるのが通常だが、波照間島はいずれにも該当しない。それでは水稲に必要な水資源はどのようにして確保したのだろうか。それは「天水」である。天の恵みを希い、ひたすら神に慈雨の祈りを捧げた。
稲作は、降雨を大切にした天水田で行われていた。島は、東部一帯の土地は痩せているため天水田に適せず、もっぱら西部一帯で行われた。現在の中型製糖工場が建設される前まで四集落付近や、これら集落と富嘉集落と間の一帯は水田が広がっていた。収穫期になると、黄金穂が波を打っていた。稲の栽培は一期作で行われることがほとんどだった。
穀物類や米を貯蔵する施設が高床式の倉、つまり高倉である。その構造は頑丈な柱脚が礎石の上に建ち、どっしりとした頑強な外観を形づくる。屋根は茅葺きである。建物の大きさは、床面積が八畳ほどで、壁に戸板があり、木梯子を使って内部へ入った。床の高さは約一・二メートルほどだった。高倉の良さは、床を高くすることで風通しを良くし、湿気を押さえることにある。そして野ネズミや病害虫などの侵入を防止でき、命の糧である穀物類を保管したのである。
昭和三十年代の島の古き時代には高倉は、各家庭に一棟ずつ建てられ、集落の周辺に見かけられた。冨嘉部落の部落会館の西側に、数年前まで礎石が残っていたが、今では姿を消してしまった。西表島などから建築資材を確保して建てられた高倉。建築様式の変遷を知るうえで貴重な構造物である。