その声は浜の方から届いていた。泣いているようにも叫んでいるようにも途切れ途切れに聞こえていた声が、次第に近づき明瞭になってきてようやく、浜に異変が起っていることを知った。
「急いで見てきて」。
朝食の支度をしていた母が緊張した顔でぼくに告げた。
浜にはすでに何人かの村人が集まり、沖合いの海を無言で眺めていた。小学四年になったばかりのぼくも大人を真似て腕組をし海に視線を向ける。
遠浅の海に潮が満ちてきた。通常の速度とは明らかに違う波の動きが不気味だった。
「これは津波だろう。一刻も早く高台に移動した方がいい」。
長老の断言で砂浜には動揺が走り、我れ先にと誰もが踵を返した。
噂がすでに流れていたであろう、父は風呂敷包みを、母は旅行カバンを抱えすぐに支度をしろとぼくを急かした。
庭先を叫びながら走る人が見える。ぼくは混乱しながらも、どの教科書を持って行こうかと悩んでいた。母のしびれを切らした声が鼓動をさらに乱したが、ぼくはなぜか地図と筆記用具をしまい、すでに庭を横切っている両親の後を追った。道ゆく村の誰もがこわばった表情だった。童のあげる喚声が妙に渇いていた。
急激に満ちてきた潮が砂浜の半ばまで一気に駆けあがると次にその波が沖へ戻っていく。浜での光景を反芻しながらも津波という言葉の恐怖をまだ実感できなかった。母の背中に尋ねたいことは次から次へ湧いてきたが、とても口を開ける雰囲気ではなかった。三十分ほど歩いた所で各々が木陰に陣取った。
高台から砂浜がよく見えた。これから波が次々と押し寄せぼくたちの住んでいた村がさらわれていくのだという、想像は心躍るものだった。眼下に広がる青く澄んだ海を見続け、さまざまな波が祭のように舞うのだと、五十年前のチリ地震のとき、ぼくはほんとうに期待していた。