二月末に石垣市の友好都市である稚内市で会合があった。稚内市初の考古学専門員「内山(真澄)さんを囲む会」と銘打った集まりには、東京、札幌、宗谷管内の島々・町村から十人余が参加していた。それに石垣島から飛び入りしたのである。
私たちの出会いは平成七年十一月まで遡る。石垣市に交流職員として来た内山さんと一ヵ月間同僚として働いたのがきっかけだ。この期間は私にとっても新鮮で、一緒に島内の遺跡を巡っては遺跡の立地やその出土遺物について情報交換をした。雪降る北海道から二五度を超える石垣島に来て山歩きをしているのだから、内山さんにとっては体力的にきつかったと思う。それでも毎日毎日、精力的に現場を歩かれていた。それから直接会うことは少なかったが、季節の書状やメールなどで交流を続けてきた。その内山さんが三月定年退職を迎えることになり、四月以降は札幌に住まいを移すという。これは会いに行くしかない!と思い立ったのが今回の旅であった。
北海道には歴史がない。稚内の歴史は古くて百年。よく聞く言葉だが「土地の記憶」はそんなものではない。宗谷管内にはいわゆる日本の旧石器や縄文文化の北限にあたる遺跡があり、北端の考古学は南端の考古学同様、自主発生というよりも「彼らがどこから来たか」が議論される。そのため、彼の地で遺跡を理解する手法・論法は八重山考古学の視点にも役立つものだ。囲む会の席上、遺跡調査時の写真が壁に映し出され、関わったメンバーから当時の思い出が語られた。配布された手作りの冊子には今はもう大学の「先生」になっている方々からも、内山さんへの感謝と愛が溢れる言葉が綴られていた。
稚内市では昨年、内山さんの後任として考古学の専門員が採用になった。また内山さんが残した二〇〇頁程の資料を基に、市民向け「稚内学」の講座も検討中だという。日本の北の端と南の端。これからも「文化」をキーワードとした交流を続けていきたい。