「人頭税」が八重山に1903(明治36年)まで、260年余の間課せられていたころのことです。
真栄里村のマニッカ3兄弟が、人頭税から逃れるため於茂登山に逃亡し、洞窟にかくれて夜は作物を盗んで暮らしていました。真栄里村では逃亡した3人分の税が村人たちの負担となるためマニッカ兄弟を探していました。ある日、平得村の男が犬を連れ於茂登山へ猪狩りに行ったところ犬が吠えるので、よく見るとマニッカ3兄弟がいました。3兄弟は逮捕に来たものだと思い男に襲いかってきたが、捕えに来たのではないと知り、3兄弟は男と取引をしました。3兄弟がこの山に隠れていることを他言しないで食料を差し入れてくれれば、代わりに夜近くにある男の田畑を耕しておくと約束して3兄弟は姿をくらました。
ある日、畑にいる若い女が3兄弟にさらわれ、騒ぎとなりました。女は3兄弟からのがれる策略を考えました。3兄弟に「この山にいると捕まるから名蔵の浜にある舟で西表島へ逃げよう」と話しました。3兄弟は逃げることにしました。女は何とか村人へその事を知らせようと思い、「西表で長く暮らすには着物が必要だから家からはたおり機を取ってくる。その間に名蔵のひるぎ林まで行って待っているように」と3兄弟に伝えました。女は山から降りると、急いで役人や村人たちにそのことを伝えました。3兄弟はそうとは知らず、西表島へ逃亡するために山から降りて名蔵川河口まできたところ網を張るように待っていた役人や島人たちに捕らえられてしまいました。それから名蔵川の河口一帯を「アンパル」(網を張る)と呼ばれるようになったということです。
しかし、シャコガイに穴をあけ魚網の錘に使った貝錘(写真)がアンパルの近くの神田貝塚(7世紀)から出土していることから、古代人はすでにこの地で網を張る漁をしていたようです。アンパルの地名は上記伝説よりも古くからあるのではないかとも考えられます。また底地湾(底地ビーチ)の北端にも同じアンパルと呼ばれる地域があります。