第二次大戦後の、いわゆる「闇景気」が終わりを告げようとするころ、与那国・久部良の青年たちのあいだで「これからは文化的なものに力を注ごう」というムードが盛り上がってきた。
この機運が具体化したのは一九五二(昭和二七)年で、事実、このとしの四月一日には琉球政府が設立され、香港、台湾、琉球、日本などの中継地として、闇景気の主要な舞台の一つだった久部良集落には、目のあたり、かつてのにぎわいを過去のものとする変化が現われていた。
そこで青年会が、会館建設の資金集めを兼ねて催したのが、「演劇の夕」。会場は「平和館」である。
平和館の館主の新里和英さんは、戦中・戦後の時代背景のなかで、疎開のため県立一中(現・首里高校)から台北一中に転校し、戦後、牧港米軍通信隊機械修理部に勤めたあと、郷里である与那国に帰った-という経歴の持ち主。館主といっても二十歳前後の若者だった。帰郷の際、野戦用貯蔵機のエンジンを手に入れてきた。郵便局の事務員となったが、無類に機械いぢりが好きで、事務の仕事はそっちのけ。ある日、一六ミリの映写機を入手、スクリーンに映し出すと、最初にアメリカの喜劇俳優ボッブホープが現われたのだった。映画館を建てるきっかけだった。
話がわきにそれた。
久部良青年会には芸達者が多く「弥次喜多道中」や「南洋踊」など、多彩なプログラムだったが「観客の入りも少なく、結局、一回の興行で終わった」と当時、会員だった長浜一男さん(七八)はふり返る。
それにしても不夜城といわれた久部良の景気時代とその後の差異は激しかった。「演劇の夕」の翌年には、四十軒を越えた紅灯街が姿を消し、そこで働いていた女たちは宮古、沖縄本島へ移って行き、料亭の看板が色あせたまま風雨にさらされていること。また、集金が困難になった電燈会社が廃業し、ランプの時代が再びやってきたこと-などを、沖縄タイムス(五月二九日付)は伝えている。