第一次大宜味先遣隊 大宜味出身 昭和25年3月入植 静さん当時33歳 正勝さん当時8歳
第一次大宜味先遣隊 山口 静さん 93歳 山口正勝さん 68歳静さんの旦那さんの忠次郎さんは第一次大宜味先遣隊の団長として星野の開拓に大きく活躍し、八重山移民のために数々の功績を残し、“移民の父”と慕われた人だった。忠次郎さんが亡くなった翌年の1982年に、開拓移民と移住民の救済、復帰後における養蚕の復興の功労が讃えられ、沖縄県より勲五等瑞宝章が叙された。先遣隊として入植の下調べに、昭和25年3月16日、他16名とともに石垣島にやってきた忠次郎さん。仲間とともに仮住まいの家を建て、食料の確保のための植え付けなど、家族を呼ぶ準備をした。先遣隊は7月に大宜味へ戻り、翌8月に家族を連れて、星野へやって来たのだった。
「夜眠る暇もなく塩造りをしていた」(静さん)
伐採は、木を切りながら薪が売れたから一石二鳥だった。ジンギ山の名前の由来となっているジンギの木はよく燃えたので薪に最適だった。労働でのきつさはあったが精神的な面は苦にならなかったと静さんはいう。イモや落花生をよく作り、また、部落の浜には共同の塩炊き釜があり、毎日交代で塩を作っていた。近くの海から水を汲み、夜眠る暇もなく塩造りをしたそうだ。「当時の売値は600gで5~6B円(当時の通貨はB円)ほどだった」と静さんは今でもはっきり覚えている。
「遊ぶ場所がなかった大宜味に比べれば、八重山の自然は楽しくて仕方なかった」(正勝さん)
正勝さんは入植当時小学校3年生。当時を振り返って「楽しくて仕方なかった」という。
山から薪を運んで何往復もし、学校に行く前に畑のカラスを追い払い、ファーナン川に水を汲みに行ったりと、両親の手伝いをしていた。戦争で壊滅的な打撃を受けた沖縄本島では、農耕地の荒廃などで遊ぶ場所もなかったから、手伝いの途中でもいろいろな生き物に出会ったり、川で泳いだり、豊かな自然の中で遊べる石垣がとても楽しかった。
当時、大宜味ではまだ配給があった時代だったが、八重山はその必要はなく、とても豊かだったという。
正勝さんは「父親は星野のためによくやってくれたと思う。私は生まれた場所よりも、ここが古里だと思っている」と話した。