星野部落入植まで 

星野部落入植まで 

沖縄本島から八重山への最初の入植地となった星野。石垣島の東海岸のほぼ中央に位置する星野は当時手付かずのジャングルだった。
 沖縄の中でも、どうにか戦禍をのがれた大宜味村は、難民や米軍による捕虜の収容所となり、800人ほどの小さかった部落は、1万人以上の人口に腫れ上がったという。もともと土地に恵まれない大宜味村では、国内・海外の出稼ぎ移民からの送金によって生活を維持してきた村だったので、当時は米軍からの配給などで細々と暮らしていた。そこで発表されたのが「八重山開発計画」だった。
 1948年10月、軍、民政府共同による八重山開発計画が発表された。この新聞記事を見た山口忠次郎氏は、八重山移民を決意し、すぐに山城忠助氏、その弟の山城忠次郎氏に話を持ちかけ、両氏が同意し、計画を具体化していった。 
 しかしアメリカ側の意向を確かめる段になって、「講和会議締結まで移住問題は実施できない」という回答があり、政府援助による移住の希望は断ち切られた。しかし、こうなれば自由移民として行こうと、皆の気持ちは強く、行動を開始したのだった。

 山口忠次郎氏ら第一次大宜味先遣隊17名は、昭和25年3月、八重山へとやってきた。到着した石垣島の土地を見ては、次々と展開する美しい大自然に感激の声をあげたという。そして、星野へやってきた先遣隊は、テントを張って密林を切り開き、開拓を始めた。同年8月、23戸・105人の入植。続いて、宮古の城辺町などからの移民が加わり、63年に64戸・404人にまでなった。

入植後の歩み

 入植してきた日から、木を切り倒し、開拓の毎日。マラリアと闘いながらも、生きていくために必死に食料を確保し、皆で助け合い日々を乗り越えた。伐採した木は幸い薪として売れ、海岸で塩を作り、イモや陸稲(畑で栽培する米)、落花生などを育て食料と生活費を確保し生活してきた。後に、養蚕やサトウキビ、パインの栽培がはじまった。住む場所は、家とは名ばかりで床もない掘っ立て小屋だった。
 教育は入植直後から力を入れていた。嵩原久勝先生のもと、14名7学年複式という超人的な教育が、先遣隊の合宿所のあばら屋を校舎とし、白保小学校伊野田分校として開始された。
 昭和31年からは、アメリカ軍が星野へ視察に訪れるようになり、援助もはじまった。そこからは完全な計画移民で多くの人々が八重山へ渡ってきたのだった。

◆昭和26年 学校が星野より、伊野      田の現敷地に移転
◆昭和27年 星野共同売店設立
◆昭和30年 星野に製糖工場建設、      創業開始
      パインの栽培はじまる
◆昭和33年 星野共同売店現敷地に      移転
◆昭和44年 公民館建設
◆昭和50年 入植記念碑建立
◆昭和56年 山口忠次郎氏に沖縄県      より勲五等瑞宝章が送      られた

 60年の月日が流れた。現在星野では、51戸・134人(2010年2月現在)が生活をしている。苦楽をともにし、助け合ってきたユイマールの精神は今でも残っている。

参考文献
「開拓 星野部落三十年のあゆみ」山口忠次郎著・「星野入植50周年記念誌」星野公民館

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