西表島東部にある大富は、一九五二年(昭和二七)八月、琉球政府による計画移民の第一陣が大宜味、竹富、波照間を主に具志川、西原、旧コザなどからの入植により創建された。その後、他地区からの入植が少なからずあった。場所は今から約二八〇余年前の一七一一年に竹富、新城からの寄百姓によって村立てされ、その後、廃村になった旧仲間村跡(廃村不明)。集落の名称は、大宜味の「大」と竹富の「富」を取って命名された。集落は「大富」だが、大字は「南風見仲」である。そのため、住所は「竹富町字南風見仲〇〇〇番地」となる。
入植当時は、道路らしき道路がなく、仲間橋も架橋されていないこともあり、大原集落を拠点に小舟で対岸へ渡った。また、明けても暮れても連日、荒地や荒蕪地を開墾し、徐々に耕作地を広げていった。新天地を求めて入植した人々の中には、先に男組に開墾を任せて、落ち着いた後に家族を呼び寄せる者もおり、態様は様々だった。当時の新聞を読むと、入植はゼロからの出発で、苦労ばなしの話題は尽きない。入植時の住民は「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」の協和の精神を基本に村落発展に尽くした。
集落は、まず協和の精神を実現することをモットーに掲げた。そのためには共同売店を開設し、開拓民の経済生活を助力することから始めた。売店から得られた利潤は、様々な施設に投じられた。共同売店は、波照間島にもある。お互い共同出資しあい、共同購入をすることで利潤を生み出すシステムで、共同体精神に裏打ちされたものである。
入植時は、荒地を開墾することに全労働力を注ぎ、耕地拡張に努めた。集落は入植開墾で成功を収めたが、これについて『町政三十年のあゆみ 竹富町』は、(1)パイン工場と製糖工場が隣接している(2)近くに大原港を控え、海上輸送の便がよい–などと一九六六年(同四一)の時点での利点を指摘している。
住民らは入植によってパイナップル、サトウキビを主に栽培したが、サトウキビの傍ら畜産業を副業に営む人も。住居は、茅葺き屋根に木造作りの構造。ほとんどの民家がそうだった。そして、時の流れにつれて赤瓦屋根の家屋に変わっていった。
茅葺き民家が建ち並び、その間を縫って赤瓦の木造家屋があり、未舗装の道が延々と続く。道路の側には、農作業の時に荷物を運搬する際に利用する馬車が何気なく置いてある。写真は一九六〇年(同三五)十月二十五日に撮ったもの。青年に寄り添う牛。愛情たっぷりに牛を可愛がる青年…。厳しい生活の中にも、のんびりした様子が窺える。あれから四十九年が経った。隔世の感がある。