八重山 五穀豊穣の文化誌

八重山の水田は美しい。石垣島の名蔵、西表島の白浜や祖納、小浜島の水田など静けさを保った風景は極上の景観である。なかでも西表島の美原の田植え時期の風景は美しい。緩やかな棚田状の水田に水が張られると、活きた田んぼが見え、左手に海に浮かんだ由布島が見える。現在人気商品になっている黒紫米の主要な生産地である。だが、田んぼが美しいと賞賛ばかりいるわけにはいかない。海に接する田んぼ一枚は海水の浸透で塩分を含み、稲作に適さなくなっているという。温暖化による海面上昇の影響ではないか、と地元の人は心配している。
 昔、八重山の竹富島や黒島、新城島、鳩間島などのサンゴ礁の島では水田がないため、西表島や石垣島、小浜島などに船で渡って水田耕作をした。これを「通耕」という。通って耕作をするという意味である。海を渡ってまで農耕をするのはなぜか。近世・近代の人頭税という重税の上に上納は米でなければならないから苦労して「通耕」をしたというシマチャビ(離島苦)の伝説になる。しかし、近年の研究では上納は米でも粟でも可能だったし、粟と米の交換も行われていたので、納税のための「通耕」ではなかったという。
 昭和初期には台湾で開発された「台中65号(蓬莱米)」が栽培されるようになったし、第二次世界戦後になるとアメリカ米と称した米軍の援助物資の米も入り、主食であったイモや粟などは米中心に変わっていった。
 八重山で忘れられている穀物は麦類である。「ムン・ムギ」といえば小麦のことと思われているが、八重山にも昔は大麦もあって、波照間の90歳余のオバーは大麦をマームンといって飯にして食べたと語る。小麦栽培をする人も少なく、数年前に種を探したが手に入らず、本土から送ってもらった。竹富島出身の登野城の人が小麦を栽培しており、奥さんがその粉でパンを作っている。昔、自家栽培した小麦粉でテンプラを揚げた。黒島では野菜たっぷりの焼きうどん風キラマンギや揚菓子マガレを作った。マガレは地粉を豆腐からで捏ね、水を使わず伸ばし、バラザンの形に整えて揚げた菓子である。市販の小麦粉とは味がまるでちがうとオバーたちはいうのである。小麦を栽培して、テンプラやマガレなど八重山の味を復活させたい。

八重山食文化研究会 増田 昭子

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