母

昔語り

母はよく昔のことを懐かしく思い出し、語ってくれる。
 まだ子どもの頃、父親に田んぼの手伝いをさせられた時の話。
「田んぼに入ると、首まで沈み込むくらい深くて、溺れてしまうんじゃないかと怖くて息もできなくなり、助けてー、助けてーと大声で泣き叫ぶと、お前のじいさんは驚いて田んぼから抱き上げ、泣き叫ぶ自分を家に連れて帰ったよ。それから、田んぼには絶対に行かないと決めて、二度と行かなかったよ」。
 戦後まもなく市街地で始めた商店の配達の話。
 小売店を回って注文を取りながら、先の注文の品を卸していくのだが、その頃はまだ自動車が普及しておらず、大きな業務用の自転車で配達していたから大変だった。
「遠くの店まで、一袋二十キロもある砂糖を五袋も自転車に積んで配達したんだよ、ハァー。慣れるまでは何回か転んで、ひとりでは又積み上げることができないから、近くの電話を借りて父ちゃんを呼んだりして、大変だったサー」。
 毎朝、店先の道路の掃除を日課にしていたことなど。
「朝一番に起きて、店の周囲を掃除するのが楽しみだったよ。きれいにしてから、道端に立つと、夜が明けたばかりの、朝の風が気持ち良かったさー。それから朝ごはんの支度に取りかかった。あの頃は朝早くから夜遅くまで、よう働いたよ。汗を流した後のご飯は格別に美味しいよね、だからが風邪ひとつ引かなかったはず」。
 母は今年の一月、満九十歳を迎える。

仲間 重治

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