いまでも記憶されている方々の多い、いわゆる「昭和八年台風」は、風向南、最大風速五〇・三メートル、瞬間最大風速五七メートル、総雨量三八六・九ミリ(石垣島地方気象台調べ)。来襲したのは、九月一七日であった。
一方、被害は『新八重山歴史』(牧野清著)に「住家、学校、桟橋等破壊、死傷一六名、行方不明四人、被害二百万」とある。
いまや故人となられた喜舎場英勝さんは、このときの年月日とともに、台風にまつわるシーンをあざやかに覚えていらっしゃった。
わたしがお話をうかがったときは、すでに六二年の歳月を経ていたのだが?。
それというのも、教員だった彼は、この台風で生家が被災したという知らせを赴任先の与那国で受け、急遽、石垣へ帰ったからだ。
「一望千里という感じでしたよ」と喜舎場さんはふり返られた。「石垣の町並みが原っぱのように平坦になって、桟橋からじかに山がみえました」。
家は、倒壊はしていなかったが、名だたる台風で様変わりし、移動していた。そのため、復旧にあたって、加勢の人々は、一人ひとり柱を両手で胸元に抱き、指揮者の号令一下、持ち上げて歩き、礎石に据えて、家を元の位置に戻すということもあった。
最後の頭職をつとめた人の、家格の高い家で、造り方も一般の住まいより大きかったが、茅葺だったので軽く、そんなことができたのだろう。現在のようなコンクリート建築、あるいは瓦葺きでは思いも寄らないことである。
みなさんごらんの写真と同じ場面を撮った記念写真がもう一枚あって、それには「石垣町救済寄贈芋蔓与那国村同志会」と大きくチョークで書いた戸板を、誰かが後方で掲げているのがある。これによって、石垣では、台風のせいで、植え付けの芋蔓にも困っていたことがわかるのである。
救援に立ち上がった同志会がいつできたのか、はっきりしない。
男は十五歳から五〇歳、女は十五歳から四〇歳の村民全員が会員だった、という。
当時の会長は吉元広栄さんで、この方は元・県副知事、吉元正矩氏の祖父である。