昭和一〇年代、尖閣諸島の魚釣島を中心に、ちょっとしたくば(和名「びろう」)の採取ブームが起こった。
尖閣諸島ではこの二十数年ほど前、黄尾礁で古賀商会が燐鉱の採掘を行ったが、燐鉱の値段が安いため、採算が取れず、二年で事業を放棄。その後を引きついだ台湾肥料会社も、やはり同じ理由で、一年で事業を断念し、尖閣は元の無人の島々に戻っていたのである。
それが再び、脚光を浴びるに至った。
昭和一〇年代といえば、一二年には中国で廬溝橋事件が起こり、日本は中国との戦争に突入していた。一四年になると、防空訓練もはじめられ、七月には国民徴用令も公布された。こんな時代のプロセスを背景に、一つにはくばの葉柄の繊維が、軍艦や汽船などのデッキ用の箒やたわしに重宝がられたのである。
魚釣島は「くばしま」という別名があるように、くばやその他の灌木におおわれている。
昭和一四(一九三九)年五月、田村春馬(田村商店主)は国吉長美、井上義夫と共同で古賀商店から向こう一カ年の魚釣島のくば採取権を獲得。人夫三十数名を、自前の漁音丸で、一昼夜かけて与那国から送り込んだ。一行は作業小屋を建てて仮住まいし、くばの採取をはじめた。
くばの需要は、さらに高まる。
戦況が悪化。皮革不足をきたし、それを補うため代用皮革の研究をしたところ、くばの葉柄の根元が注目されたのだ。縦横斜めに入りまじった天然の組織は、耐久力でも皮以上の強さがある、という。しかも、製品は美術的なものになる。
太平洋戦争半年前の、昭和一六(一九四一)年六月二九日付けの『沖縄新報』は「クバの葉柄の皮で靴や鞄を製造 与那国で事業化」と報じた。また、当時の沖縄県知事・早川元も、この日の日誌でその記事を踏まえ「差当たりの生産地としては八重山郡与那国島に、二十万ほどのクバがあり一株二十本内外の葉柄がとれるし年々新しい葉が出てくるので同島だけでも十万円内外の売り上げとなろう」と書いた。
魚釣島から与那国島へー確かに、与那国では久部良岳をはじめ、くばの目立つ「くばやま」が多い。だが、その後の戦局の推移は、せっかくの早川知事の見積りを、取らぬ狸の皮算用にしてしまったのである。