日向丸の行方不明事件から、ちょうど十日後の一月十四日(昭和二〇/一九四五)年午前十時ごろ、B24が宇良部岳を一周したあと、東にあらわれ、機首をさげ、四方がガラス張りになった望楼に機銃掃射を浴びせる。監視にあたっていた二等水兵・請舛秀雄(当時二四歳)、我那覇昇(二四)は身を伏せたが、たまたまそこへ上がってきていた当直の大林が恐怖にかられ、階段を一階へかけおりる途中、銃弾が腿に命中し、出血多量で死亡した。
翌十五日午前十時頃、村本美代(一八)は宇良部岳の東にある「ふがヌたてぃばな」で妹と二人、薪取りをしていたところ、B29が低空飛行し、銃撃を加えながら山頂をめざして行った。ふたりは赤木の大木を盾に、襲いかかる敵機の反対方向にまわって銃弾をのがれる。望楼では、請舛らが、B29を「小指大にみえる階段」で発見し、いち早く二階から兵舎近くの岩の下に避難することができたが、攻撃は五回、六回とくり返され、執拗だった。コンクリートづくりの風呂場の鉄筋が露出するほどで、電探、つまりレーダー係の井上は右腕をやられた。
「発射するボーンという音が聞こえると同時に、弾が直線に兵舎に当たり、全く槍投げのようでした。飛行機は、火花が燃え上がるのを見ながら宙返りして、また、北から発射―、兵舎は三発で全滅しました」。
これは村本美代が赤きの蔭からみた山頂の光景である。のちに請舛の妻となる目差敏子(一九)は、そのとき北側の麓の「まいやま」で住まいの隣近所の人たち五、六人と薪拾いをしていて、一度、パラッという音を聞いたと思った。やがて、負傷兵の左右から腋の下に肩を入れて支えながら、兵隊たちがおりてきた。兵たちは「オイオイ、敵だよ。山から出なさい」といった。彼女たちは、家に帰った。
平石良一兵曹長以下、守備陣は、まもなく宇良部岳から撤退した。