島社会のカツオ節製造

島社会のカツオ節製造

サトウキビの島で知られる波照間島。かつて島は生活の半分が自給自足的な”半農半漁”の村だった。要するに農業と漁業が、島の経済を支えていたのである。漁業の主役はカツオ節製造だった。五月~九月まで夏場は、一年中で最も多忙の日々が続き、島は活気づいた。
 島のカツオ漁業の始まりは、一九〇八年(明治四一)に宮崎県人が渡島して、帆船でカツオ漁業およびカツオ節製造をイナマ海岸で始めたことによる。その後、県外人及び県内人が出入りして操業を行ってきたが、そのうちにカツオ漁に関心を持つ島民が、与那国へ見習いに行き、石垣島で帆船を建造させたのである。一九一二年(大正元年)のことだった。
 その後、一九二〇年(同九年)頃にはカツオ漁船は発動機船に徐々に移り変わって行った。発動機船になると、スピードもアップし遠洋漁業とはいかないまでも、それなりに近海漁業も可能になった。北、南、前、名石、富嘉の各集落では入れ替わり組合を組織し、本格的にカツオ漁に乗り出した。
『先島朝日新聞』に次の記事がある。「波照間島は西南より東北に流れている黒潮に抱かれている関係上、鰹魚を始め幾多の漁業が盛ん徐来…」(一九二九年二月三日)。要するに近海はカツオの漁場だったのである。
 戦時中は一時、釣り人は軍に招集され、カツオ船は軍事物資の輸送に徴用されて、往事の勢いを失って衰微した。カツオ漁業は休眠状態に陥ってしまった。
 しかし、戦後になって息を吹き返した。操業する底力を充分に備えており、いち早く復興した。一九五三年(昭和二八)?一九五五年(昭和三〇)にかけて最盛期を迎え、漁船の数八隻、工場数十工場を数えた。
 カツオ漁業は、釣り人と製造人とに、大きく役割分担できる。釣り人は釣りに専念し、製造人はカツオ節を仕上げるまで、一連の作業を受け持つ。製造人は、漁船が入港してからが勝負となる。眼鏡で船を確認すると、今度は陸(おか)が忙しい。
 漁船は、漁獲量を表すカクバタ(一旗)、アガバタ(二旗)、ミールバタ(三旗)、グイルバタ(四旗)の旗を掲げて港に入る。旗の数は満杯なった、生け簀の数を表す。グイルバタだと大漁でごった返す。納屋は製造人に加えて、島の女性らも参加して猫の手も借りたいほど忙しいのである。漁船は当時、大黒丸、豊福丸、開洋丸、新福丸、昭洋丸、進幸、朝日丸がいた。カツオ工場跡地は、歴史の闇に消えつつある。

竹富町史編纂委員 通事 孝作

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