高那弘子の粘土人形

高那弘子の粘土人形
高那弘子の粘土人形
高那弘子の粘土人形
高那弘子の粘土人形

竹富島・「茶屋たかにゃ」内にあるギャラリー。『郷愁の沖縄』をテーマにした高那弘子さんの粘土人形がショーケースに並ぶ。人形というと、そのイメージは“古臭いもの”を連想してしまうが、弘子さんの人形は特別だった。古くもなく、新しくもなく、新鮮な懐かしさがあった。それは、切り取った日常と豊かな表情の奥に、誰もが「郷愁のふるさと」を見ることができるから、なのだろうか。

≪一番自分に残ったもの≫
弘子さんが本格的に粘土人形を作り始めたのは、今から約30年前、沖縄本島の浦添市で会社員をしていた頃、「沖縄県内にも粘土を普及させたい」という粘土のメーカーから声があがり、まずは講師育成ということで、弘子さんを含め10名ほどが本格的に習い始めたことがきっかけだった。
「約3年かけて日本クレイクラフト認定講師の免許を取得しました。浦添市にいた頃は、市の文化協会に所属していて、子どもたちの夏休みや雛祭りの際には講師を務めたり、年に3回の展示会を行ったり、社会福祉協議会から団体賞をもらうほど活発に活動していました」
本格的な始まりは“粘土の普及”。では、粘土への興味をかきたてた原点は何だったのだろう――?
「粘土は失敗しても崩してまた作れる、自在に作れる、それが自分の性格と合っていたのかもしれませんね。パッチワークとか編み物とか、いろんな“手作り”をやってみたけれど、一番自分に残ったものが粘土人形でした」

≪郷愁の沖縄≫
「糸紡ぎ」「「やまんぐ」「なかゆくい」・・・ギャラリーにある作品は、どれも沖縄の風景ばかりだが、家の一番座でよく見るような琉装をした人形や、沖縄芝居の人形とはまた違う。人々の日常を切り取った、暮らしそのものが造形されている。
「特別なものではなく、何気ないふとしたもの、例えば風呂敷を持ってどこかへ行く姿とか、今ではなかなか見ることがなくなった日常の風景、昔ながらの風景を作りたい、この思いは粘土を始めた頃から強く持っていました」
免許取得の講習では、ヨーロッパ調の人形を基本に作っていたが、すぐに飽きてしまい、作っても手放すことが多かったという。結局、心が安らぐ日本調のものが自分の手元に残っていった。
それにしても、麻の着物を着た日常・・・弘子さんはそんなにお年を召していないはずだが・・・。
「作品の風景は自分の幼少時代の記憶を元にしたものが多いけれど、周囲の方々のお話からヒントを得ることもたくさんあります。例えばこの間、義兄が“今の人は方言で挨拶ができてすごいね。自分たちの時は方言札があったから、今すぐに方言で挨拶しろと言われてもできないよ”と話をしていたんです。それを聞いて、方言札を首にかけて廊下に立たされている光景を作品にしてみようとヒントを得ました。もちろん、私は方言札を見たことがありません。服も、私が小中学生の頃は、人形が着ているような着物ではなく、上布を仕立てて作ったブラウスやスカート、ワンピースを着ていましたね。今考えると贅沢なことだけど」

≪忠実な再現とルーツ≫
粘土人形とともに並ぶもうひとつの作品。それは小道具。どこかで売られているものだとばかり思っていたが、すべて、弘子さんの手から生まれたものだという。いざ作るとなると“見たことがある”では表現できない細部がある。
「例えば“糸紡ぎ”。ただ紡いでいると思ったら、糸目が見やすいように膝元に黒い布を敷いたり、糸の巻き方もちゃんと方法がある。わからないことは実際にやっている人に習ってから自分で作ります。昔ながらにこだわって作るからには、島の歴史や文化を勉強したいと思う。わからないものは文献で調べたり、話を聞いたり、だから粘土をやることで、広がりができた。そして、粘土を通していろんなことを学ぶほど、島の奥深さを感じるようになりました」
“昔ながら”は、おじいちゃん、おばあちゃんには懐かしい情景、若者にとっては記憶ではなく語られるだけの歴史、そして弘子さんの年代にとっては、記憶であり、見ることのなかった歴史でもある。“昔ながら”を表現するには少し若すぎる年代でもあるのかもしれない。それでも弘子さんの作品に懐かしさを感じるのは、背景や小道具にまで忠実であること、そしてやはり、島を誇り、そのルーツが作品にもふきこまれているからなのだろう。

柿元 麻衣

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